Slide 1

Slide 1 text

与謝野晶子を支えた 足立の歌人画家 千ヶ崎 悌六 ち が さ き て い ろ く 千ヶ崎悌六《江村残雪》 (当館保管 個人蔵) 1 令和 2 年 7 月 9 日

Slide 2

Slide 2 text

千ヶ崎 悌六 (明治38~昭和35年、1905~60) ・与謝野寛・晶子の側近を務め、 夫妻の活動を傍らで支えた歌人。 ち が さ き て い ろ く ・潮止村(現 埼玉県八潮市)の村長を務め る田中家に生まれて、足立区花畑 の名家、千ヶ崎家に婿入りし、足立 区立第十三中学校で英語教員も 務めました。 千ヶ崎 悌六 (悌六氏の歌集『葛飾』より) ・洋画壇の重鎮、石井柏亭に学び、 画家としても活動しました。 い し い は く て い し お ど め む こ は な は た 2 与謝野晶子の歌道を受け継ぐ

Slide 3

Slide 3 text

与謝野 寛 (明治6~昭和10年、1873~1935) ・詩歌結社「東京新詩社」を主宰し、 文芸雑誌『明星』を創刊した歌人。 鉄幹とも号しました。 よ さ の ひ ろ し 与謝野 晶子 (当館保管 個人蔵の肖像写真) 与謝野 晶子 よ さ の あ き こ (明治11~昭和17年、1878~1942) ・新詩社に参加した歌人で、古典 研究家、教育者でもあります。 『みだれ髪』などの歌集で知られ、 幅広い層から支持されました。 し ん し し ゃ みょうじょう て っ か ん 近代を代表する歌人夫婦 3 与謝野 寛 (『冬柏』第5巻第7号(昭和9年刊)より)

Slide 4

Slide 4 text

与謝野寛・晶子への憧れ ・悌六氏は、旧制第二高校在学 中、与謝野夫妻の文芸雑誌 『明星』(第二次)に短歌が初 掲載されます。 『明星』(第二次)第10巻第1号(昭和2年1月刊)に 掲載された悌六氏の短歌「真昼の夢」(全32首)。 「 若 き 身 に 夜 の 曇 れ ば 心 憂 し 星 の 光 れ ば な み だ な が る る 」 ・高校卒業後は、荻窪の与謝野 夫妻の家に足しげく通い、活動 を共にするようになります。 4

Slide 5

Slide 5 text

文芸雑誌『冬柏』の編集 ・昭和5(1930)年、与謝野夫妻 は新たに文芸雑誌『冬柏』の 創刊を計画します。 『冬柏』第2巻第1号(昭和5年12月刊) 当館蔵 ・悌六氏は『冬柏』の創刊から 編集に携わり、やがて編集 発行の責任者を任せられま す。 と う は く 5

Slide 6

Slide 6 text

与謝野寛・晶子の支持者たちとの交流 ・与謝野夫妻と活動を共にしていった悌六氏は、与謝野夫妻を支持する各地の歌人や 有力者たちとの交友を広めていきます。 尾崎行雄(政治家) / 堀口大学(仏文学者) / 徳富蘇峰(文筆家) / 佐々木信綱(歌人) 森於兎(森鷗外子息) / 高浜虚子(俳人) / 石井柏亭、有島生馬(洋画家) など 鎌倉の実業家、内山栄保の邸宅にて (『冬柏第5巻第7号』(昭和9年)より) 与謝野晶子 尾崎行雄 与謝野寛 田中(千ヶ崎)悌六 〈 悌六氏が交友した与謝野夫妻周辺の人物たち 〉 お ざ き ゆ き お ほりぐち だいがく とくとみ そほう さ さ き のぶつな もり お と たかはま きょし いしい はくてい ありしま いくま 6

Slide 7

Slide 7 text

与 謝 野 晶 子 歌 幅 ( 当 館 保 管 個 人 蔵 ) 「 た な ぞ ら に め で た き 春 の 片 は し を お く こ こ ち す る 白 き 羽 子 か な 」 悌六氏が伝えた 与謝野夫妻の作品 与 謝 野 寛 歌 色 紙 ( 当 館 保 管 個 人 蔵 ) 「 傾 き て も の を お も へ る ひ た ひ を ば 空 に も お け る 細 き 月 か な 」 7

Slide 8

Slide 8 text

悌 六 の 和 歌 金 町 の 方 に て 汽 車 の 笛 鳴 れ ば 岸 の 黄 が ち の 葦 う ご き 初 む 「 霧 」 ( 『 冬 柏 』 第 一 巻 第 九 号 ) 足 立 を 歌 う 悌 六 氏 は 、 歌 人 と し て 多 く の 和 歌 を 作 り 、 文 芸 雑 誌 に 寄 せ ま し た 。 そ の 中 に は 、 親 し ん だ 八 潮 ・ 足 立 周 辺 の 情 景 を 詠 ん だ 歌 も 多 く あ り ま す 。 十 二 月 欅 の 木 立 中 川 の 水 に う つ れ る 網 の ご と く に 「 河 畔 」 ( 『 冬 柏 』 第 三 巻 第 一 号 ) 綾 瀬 川 な つ か し 蟹 の 背 の ご と く 煉 瓦 の 屑 の こ ぼ れ し 岸 も 「 か つ し か 」 ( 『 冬 柏 』 第 三 巻 第 二 号 ) 鐘 ヶ 淵 瓦 斯 の タ ン ク を 先 づ 消 し て 河 を 渡 れ る 霜 月 の 雨 「 霜 月 」 ( 『 冬 柏 』 第 三 巻 第 十 二 号 ) 北 千 住 野 菜 市 場 の 中 に 立 つ 柳 の 枝 の 切 ら れ た る 冬 「 冬 」 ( 『 冬 柏 』 第 六 巻 第 一 号 ) 葛 飾 の 芹 を 入 れ た る 籠 を 置 く 朝 の 厨 の 三 和 土 の 隅 に 「 春 雨 」 ( 『 冬 柏 』 第 十 四 巻 第 五 号 ) あ し そ か な ま ち け や き こ だ ち か に れ ん が く ず か ね が ふ ち が す ま せ り か ご く り や み た き す み 8

Slide 9

Slide 9 text

恩師を看取る ・昭和10(1935)年、与謝野寛が急逝します。悌六氏は慶應病院に入院していた 寛を頻繁に見舞い、容体を逐一、新詩社の仲間たちに伝えていました。 ・さらに昭和17(1942)年、与謝野晶子が亡くなります。この時も悌六氏は頻繁に そばに呼ばれており、逝去時には方々への連絡や葬儀の対応に従事しました。 逝去する三日前の与謝野晶子 千ヶ崎悌六《病床の与謝野晶子》 (当館保管 個人蔵) み と きゅうせい ひんぱん ちくいち 9

Slide 10

Slide 10 text

悌六氏が描いた 与謝野晶子臨終の像 ・昭和17年5月29日、悌六氏は与謝野家の人々と共に晶子の側に控えてその死を看取り ました。その後、葬儀の準備に追われながら、臨終の晶子の姿を描いたのです。 千ヶ崎悌六《与謝野晶子臨終の像》 (当館保管 個人蔵) りんじゅう 10

Slide 11

Slide 11 text

洋画家 千ヶ崎悌六 ・悌六氏は、与謝野夫妻の盟友である 洋画家、石井柏亭に油絵と水彩画を 学んで、画家としても活動します。 石 井 柏 亭 《 椿 図 》 ( 当 館 蔵 千 ヶ 崎 家 寄 贈 ) ※ 柏 亭 か ら 千 ヶ 崎 家 へ 何 ら か の 謝 礼 と し て 贈 ら れ た 掛 軸 。 ・日展などにも出展して、柏亭の画風 の後継者と期待されました。 ・一つの題材をもとに、絵と和歌の両方 を創作するのが、悌六氏の特徴でした。 い し い は く て い 11

Slide 12

Slide 12 text

・美術団体「双台社」の団体展に出展しました。 悌六氏の作品 水彩画 《河口》(当館保管 個人蔵) ・静岡県富士市の田子の浦が舞台。 田 子 の 浦 元 吉 原 の 二 ヶ 村 を し き れ る 水 に 映 る 松 か な 冬 の 日 を あ た た か く 受 け 沼 川 の 河 口 に 咲 く 蒲 公 英 の 花 「 沼 川 口 」 ( 『 冬 柏 』 第 十 二 巻 第 二 号 ) か こ う そうだいしゃ た ご に か そ ん た ん ぽ ぽ 12

Slide 13

Slide 13 text

悌六氏の作品 油彩画 《城址初秋》(当館保管 個人蔵) 富山県高岡市の高岡城址のお濠を描いた昭和18(1943)年の作品です。 城 あ と の 二 の 丸 の も と 濠 に あ り 大 鬼 蓮 と 紅 蓮 の 花 い ち 早 く 枯 れ ゆ く 葉 な ど 混 り つ つ 濠 を 埋 め し 蓮 に 来 る 秋 「 瑞 龍 寺 な ど 」 ( 『 冬 柏 』 第 十 四 巻 第 十 号 ) じょうししょしゅう たかおかじょうし ほり ほ り お お お に ば す べ に ば す ほ り は す 13

Slide 14

Slide 14 text

悌六氏の作品 水彩画 《江村残雪》(当館保管 個人蔵) 足立区花畑の花畑小学校二階教室からの景色。 朝日新聞社主催の『週刊朝日』表紙コンクール参加作に選ばれました。 《江村残雪》が掲載された 『週刊朝日』第60巻第3号(個人蔵) こうそん ざんせつ 14

Slide 15

Slide 15 text

足立の教員 千ヶ崎悌六 ・昭和17(1942)年に花畑の名家、千ヶ崎家に婿入りした悌六氏は、43歳となる昭和23年、 前年に新設されたばかりの足立区立第十三中学校の英語教員となります。 教室の奥に立って 授業をする悌六氏 (昭和27年の第5回 卒業アルバムより) 15

Slide 16

Slide 16 text

悌六氏がデザインした 十三中学校の校章 ・昭和29(1954)年、悌六氏は画家としての経歴をみこまれて、十三中学校の新たな 校章デザインを任され、桜の花びらの意匠を組み合わせた校章を作り上げました。 ・悌六氏のデザインした校章は、現在も十三中学校の校章として親しまれ続けています。 悌六氏が述べる十三中校章のデザイン 「結局常識的な紫を避けて緋に黄色を 加えた橙ということに落ち着いたの ですが(中略) 十と中を一緒にして真ん中に置き、 四方に桜の花辯三つを配しただけで、 強いてこじつければ、それで十三と 中学の意味を含め、又花畑中学校と なった場合には桜の花で逃げる道を 置いただけです」 (足立区立第十三中学校創立十周年の記念誌より) 16 むらさき ひ だいだい か べ ん

Slide 17

Slide 17 text

お わ り 足立区立郷土博物館 与謝野寛・晶子に石井柏亭、 時代を代表する文化人たちに愛され、 歌と絵を愛した「悌六先生」の思い出は 今も教え子たちの記憶に生き続けて 編集:学芸員 小林優 17 います。