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本日の内容 1. なぜパリ・パラリンピックに? 2. パリ・パラリンピックについて 3. こんな仕事をしました 4. 大会期間中のパリ 5. 想いは、生き続ける Paris 2024 ~パリ・パラリンピック プチ紀行〜 選手村

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1、なぜパリ・パラリンピックに?  始まりは、大会開催の3ヶ月ほど前。 日本パラリンピック委員会(以下JPC)のMさんから、 4年ぶりにこんなメッセージが届きました。 「パリ・パラリンピックの仕事をお願いすることは可能ですか?」  Mさんとは『大分国際車いすマラソン大会』の語学ボランティアグループで知り合い、10 年近く一緒に活動していた方で、当時は主婦でした。 が、語学力、コミニュケーション能力、熱いハート、面倒見の良さといった素晴らしい素質 をかわれ、JPCで活躍することとなった方です。  Mさんとは、数年に一度メッセージを送り合うものの、15年ほど会っていませんでした。  今私がどんな状況なのか、大舞台の仕事に誘ってよい人材なのかも明確ではないにもかかわ らず・・・その度量も、さすがは世界で活躍する方だと感じました。

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2、パリ・パラリンピックについて パリ・パラリンピックは、2024年8月28日から9月8日の 12日間に渡ってフランスで開催されました。 車いすテニス、車いすバスケットボールなど22競技549 種目がおこなわれ、4,463人のアスリートが参加。 日本代表選手団は金メダル14個、銀メダル10個、銅メダ ル17個、合計41個のメダルを獲得し、メダルランキング は参加国全体で10位です(※国際パラリンピック委員会統 計。1位は合計220個の中国)。 開会式はパリ中心部にある「コンコルド広場」で盛大に 開催され、全編生中継されました。私はホテルのテレビ で見ていましたが、中継中ほとんどコメントがなかった ことに、フランスらしさを感じました(映像や音楽の演 出をそのまま感じて欲しい、ということではないかと)。 コンコルド広場の会場 スタッド・ド・フランスでおこなわれた閉会式 4時間みんな踊りまくり(日本人以外)でほぼディスコ状態

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   3、こんな仕事をしました 私の職場は、選手村から徒歩10分ほどの場所にあるホテ ル内の会議室に設けられた、日本選手団の「村外拠点」 と呼ばれるサポートセンターでした。 村外拠点は選手とその家族、各競技団体の方が面会や問 合せ、記者会見などで使用するところで、日本パラリン ピック委員会(以下JPC)の方、公式のプレススタッフの方 も常駐していました。 私の業務内容は、主に選手とその家族、各競技団体の観 戦チケットを手配したり、電話やメールで会場の案内や トラブル対処など。勤務は朝7時から17時まででした。 センター自体は22時まで開いていたので、業務が多い時 に残って作業しようと思って続けていたら、逆に「時間 通りに帰ってください」と注意されました。普段、勤務 時間に上限のないフリーランスの私には、とても新鮮で した。 パリでの職場 オリンピックのために着工されたホテル。 だがいまだに建設途中。。。    ↑ ある日の夕食 合計2,000円くらい (スーパーで買っ たお惣菜、デザー ト、フランス版の アサヒビール的な ブランド「クロー ネンブルグ」) ホテルの部屋(冷蔵庫なし)

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    4. 大会期間中のパリ 期間中のパリは、会場近くのメトロ(地下鉄)の駅や選手 村周辺の道路が封鎖されており、地元の人にとってはと ても不便だったようです。 メトロの切符は通常1枚2.5€(約370円)ですが、期間中は およそ2倍の金額。ホテルもどこも倍近くで、私のホテ ルも質素なビジネスホテルでしたが一泊4万円ほどでし た。仕事でなければ到底2週間もいられません。。。 一方、感心したのは治安維持と環境整備。 パリには期間中7万5000人の警察官と兵士、警備員を動 員されていました。 選手村と村外拠点のあったパリ郊外のサン・ドニは移民 が多く、普段はパリの人が絶対に足を踏み入れないほど 治安の悪い町で有名ですが、期間中は50m間隔で24時 間、国内はおろか近隣国、はては中東からも集まった警 察官が立っていて、夜中でも安心して歩けました。 またパリはごみやタバコの吸い殻が落ちていて、メトロ 構内や通りが少々汚いイメージでしたが・・・それもな く町が美しい! オリンピック・パラリンピックにかけるフランスの気合 を感じました。

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    5. 想いは、生き続ける  今はカメラマンが本職で、フランスとは25年、障がい者ス ポーツとは10年ほど縁遠かった私が、パラリンピックの仕事 でパリに行くなど、宝くじに大当たりしたくらい自分にとっ てラッキーな話でした。  それは声をかけてくれた日本パラリンピック委員会のMさ んはもちろん、国際車いすマラソン大会という素晴らしい障 がい者スポーツの大会を開催している大分が導いてくれたも のだと思っています。  そして影で大きな力をくれたのは、長年私の親友であり、 かつてフランス語教室を一緒に立ち上げ活動していた同志、 故・池田 裕佳子さんです。  裕佳子さんは障がい者スポーツの世界に魅了され、2017 年から日本パラリンピック委員会に勤務。東京とパリでの活 躍を夢見て勤務していましたが、翌年末に脳腫瘍で倒れ、闘 病の末2000年7月、47歳で他界しました。   2015年3月『アイト・フランス』最終日 (2002年に共同で立ち上げたフランス語通 訳・翻訳協会&フランス語教室)

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    5. 想いは、生き続ける  闘病中ほとんど会話ができず、意識がもうろうとしている時も、車いすマラソンやパラリンピック、パ リの話をすると目が輝き笑顔になるほど、パラスポーツとフランスが大好きでした。  パリ行きの話が決まった日は、くしくも彼女の命日の翌日。ちょうどご実家にお参りに伺う直前に連絡 が入りました。ご両親に報告すると「裕佳子も喜んでいる、あなたのことをきっと見守っている」と泣い て喜んでくれました。私もきっと彼女が「一緒に行こう」と、こんなチャンスをくれたのだと確信してい ます。実は私がロータリーへの入会を決心したのも、誰よりも奉仕活動に情熱を注いでいた彼女の遺志を 少しでも代わりに受け継ぎたい、という気持ちがあったことも理由のひとつです。  25年ぶりのパリも、パラリンピックという大きな舞台での裏方仕事も素晴らしい体験でしたが、 「強い深い想いは、何らかの形で生き続ける」。 それを身を以て実感したことが、何よりの感動でした。  フランスではほかにも色々と面白い出来事・発見がたくさんありました。ご興味がありましたら、また の機会にお話させてください。御拝読、ありがとうございました。 パリ  サン・ラザール駅から 見た夕焼け