をつける。感情よりも、事実。物語よりも、記録。エゴは出さず、客観的な 事実を過不足なく並べる。それが私の処世術。 あるとき、自己紹介のスライドをつくっていたら、「お行儀のいいスライド だね」と言われた。この“お行儀のいい”自己紹介を終えると、相手は決まっ て満足そうに頷き、「よく分かったよ、ありがとう」と言ってくれる。そし て会話は、当たり前のように、予定調和に進んでいく。 誰も、それ以上のことは気にしない。これが私なのだと、イメージが出来上 がる。 周りには「しっかりしている」「自立している」と映っているみたい。その せいか、周囲からよく言われる言葉がある。 もう少し、この“隙間”がどこから生まれるのか、その源泉について知っても らったほうがいいかもしれない。私の、ちょっと変わった世界の見え方の 話。 たとえば、こんな場面。イベントの途中で、「コミュニケーションの“ノ リ”が分からなくて、内心困ることがある」というテーマで、会場アンケー トが取られた。結果は、7割以上の人が「はい(困ることがある)」と回 答。それを見て、司会者が私に感想を求めた。 「この結果を見て、どう思いますか?」 おそらく、ここで期待されていた答えは「こんなに仲間がいて嬉しいです」 「私だけじゃなかったんですね」といった、共感や安堵の言葉だっただろ う。けれど、私の口からこぼれたのは、全く違う角度からの言葉だった。 「あなたは、ほっといても大丈夫だね」と。 一見、それは最大の褒め言葉。信頼されている証。 でも、それに寂しさを感じてしまう自分もいる。その言葉をもらうたびに、 私の周りから人がいなくなっていくような、そんな感覚。 だから本当は、もっと周りに伝えたいのかもしれない。心のどこかで、こ の“隙間”にずっと寂しさを覚えていた私は、きっとこの隙間を埋めたいのだ と、そう思う。 言葉の鎧と、心の隙間 私が見ている、少しだけ違う景色