Upgrade to Pro — share decks privately, control downloads, hide ads and more …

予測処理理論による〈痕跡〉概念の再解釈:記号の確率論的理解に向けて

Kanta Tanishima
October 07, 2024
86

 予測処理理論による〈痕跡〉概念の再解釈:記号の確率論的理解に向けて

哲学テクストを読むという行為を範例として、〈読む〉という行為を予測処理理論に基づいて読み手の内部モデル調整プロセスとして位置付ける。その際、哲学者ジャック・デリダの〈痕跡〉概念を参照し、内部モデルの調整によって「差異を生まない差異」が「差異を生む差異」へと変わっていくプロセスとして、哲学的テクストが「分かるよう」になるという事態を捉えることを試みる。

Kanta Tanishima

October 07, 2024
Tweet

More Decks by Kanta Tanishima

Transcript

  1. 第 回日本記号学会 44 2 発表の構成 1. 問題意識と目的 2. 予測処理理論predictive processingとは?

    3. 内部モデルとパース 4. 予測処理と読解 5. 予測処理とデリダの〈痕跡〉概念 6. まとめ
  2. 予測処理理論 predictive processing 第 回日本記号学会 44 8 脳が「ベイズ脳」仮説に基づき確率推定を行っているとする理論。脳 は内部モデルを用いて感覚入力を予測し、予測と実際の入力との差 異(予測誤差)をフィードバックとして受け取るとされる。脳はこの予

    測誤差を最小化するために内部モデルを継続的に更新する。予測 処理理論は、脳が予測誤差を減らしながら環境に適応する認知プロ セスを説明する理論的枠組み。(Clark 2013; ホーヴィ 2021)
  3. 第 回日本記号学会 44 9 世界仮説としての 内部モデル 予測誤差(驚き)の量 予測誤差を最小化する形での 内部モデルの更新 観測

    フィードバック そのつど観察される世界の断片は、 中立的なデータではなく、主体が 持っている内部モデル=世界の解 釈に相関するものとして、その修正 を要求する予測誤差=驚きの量だ と位置づけられる
  4. 「控えめな表象」(Clark 2015) 第 回日本記号学会 44 14 表象主義: 認知は内部の表象によって媒介されることで成立する エナクティビズム: 認知は主体と環境との直接的な相互作用の過程である

    「予測処理は(略)徹頭徹尾、行動志向の表象を呼び出す。このような表象は、基 本的に、感覚運動サイクルの中でアクションを提供することを目的としている。こ のような表象は、行動中立的な方法で世界を描写するのではなく、世界に関与す ることを目的としており、生物と環境の相互作用の歴史にしっかりと根ざしたうえ で、確率的生成モデル組み込んだ感覚刺激を提供する。」(Clark 2015) 命題化された言語をベースとした表象=内部モデルではなく 環境との相互作用の中で組み立てられる行為指向的な内部モデル
  5. そもそもなぜ「内部モデル」が必要なのか? 第 回日本記号学会 44 15 行為は、このようにふるまえばこうなるという、主体の行為に依存す る複数の可能世界を比較することで選ばれる。可能世界の比較の ためには世界をモデル化し、未来の複数のシナリオをシミュレー ションできなくてはならない 主体

    環境 主体と環境の二項関係的相互作用モデル 主体 環境 経験 主体と環境との相互作用を蓄積された経験が 屈折させる三項関係的相互作用モデル そのプロセスの中で 蓄積されていくものとし ての内部モデル
  6. 第 回日本記号学会 44 17 記号論に確率論的なパラダイムを導入する流れは 神経記号論や生命記号論で登場し始めている Biosemiotics誌の“Achievement Award for the

    Year 2021”に自由エネルギー原理とパースを接続した論文 (Pietarinen and Beni 2021)が選出 また脳と記号論をテーマとしたリーダー The Routledge Handbook of Semiosis and the Brainに も自由エネルギー原理のアプローチから記号論を捉える論文 (Milette-Gagnon and Veissière 2022)が掲載 ただし日本では先立つ事例も
  7. 江川晃「パースの情報記号論: 無意識過程における 脳活動への脳-記号論的アプローチ」(2017) 第 回日本記号学会 44 18 (江川 2017)より転載 「つまり、解釈項の場

    ( I m n) とは、直接的・力動的・最終的解釈項のそれぞれに、この情 動的・活動的・論理的解釈項を含んだ全体的状況であり、これらの具現化には確率が伴い、 さらに、記号過程の進化・分岐の各段階でその確率は変化すると考えられる。」 情報をパラレルに処理する多様な解釈項にそれぞれ現働化の確率が割り振られた 内部モデルが構成され、その内部モデルが少しずつ進化していくという見取り図 ※ただ想定されている確率論の手法はベイズ的な主観的な信念に 関するものではなく、物理学的な状態遷移に関わるもの
  8. “Active Inference and Abduction.” (Pietarinen and Beni 2021) 第 回日本記号学会

    44 19 解釈項/ 内部モデル 記号/ サンプル 対象/ 世界 解釈項’/ 内部モデル’ 世界の認知 アブダクション 内部モデル更新 記号/ サンプル 対象/ 世界 世界の認知 アブダクション 解釈項’’/ 内部モデル’’ 内部モデル更新 解釈項を内部モデル、記号を世界のサンプリング、対象をサンプリングの出現を 説明する世界モデルのアブダクションの結果、だと位置づけることでパースの三 項関係をベイズ推定のモデルに書き換える 世界の認知
  9. 第 回日本記号学会 44 20 「生物は、遺伝子の設計図の指示に従うことで行動を起こすような、ルールに従 順な機械ではない。そうではなく、エラーを修正し、新たな恒常性の設定点に到 達することこそが、生命システムの原動力となる方法論なのである。何かがうまく いかないとき、ゲノムの青写真はアドバイスや解決策を探すための主要な場所で はない。生物が特に得意とするのは、環境の状態を予測するだけでなく、そのよう な未来の環境に生息している自分自身を予測すること(あるいは、これらの用語

    の適切な規制を緩和した意味での「思い描く」と「想像する」こと)である。つまり、 アブダクション的に導かれた推測の観点から、現在の自分たちの構成と、過去に 記憶している、あるいは将来そうなると予想される構成との間のデルタエラーや 不一致を最小限に抑えることである。」 (Pietarinen and Beni 2021: 505) 予測の出発点であるとともに、予測誤差をフィードバック させるゴールとなるのが解釈項=内部モデル
  10. (内容面で)わからないものを読む という体験をどのように位置づけるか 第 回日本記号学会 44 26 “Reconsidering the Mind-Wandering Reader:

    Predictive Processing, Probability Designs, and Enculturation.”(Fabry and Kukkonen 2018) 「文化的予測処理enculturated predictive processing」 ☞予測処理理論に文化的要因を組み込んだもの シンプルな説明文ではなく文学作品を範例とし、内容 の直接的理解を離れて思索をさまよわせる〈マインド ワンダリング〉の働きを予測処理の観点から検討 自身の内部モデルでは文学的テキストを理解できない際に、そのテ キストが理解できるような形で内部モデルを調整していくプロセスと してある種のマインドワンダリングを位置付ける
  11. デリダによる〈声〉の形而上学批判 第 回日本記号学会 44 29 フッサールにおける記号と〈声の関係〉 記号を抹消し、〈声〉の自己現前というモデルで意味を捉える 記号/ 外部表現 書き手の

    内部表現 読み手の 内部表現 内部表現を 表現する〈声〉 フッサールによる還元 フッサールは、意識に現れた内部表現をそのまま表現することができる 現象学的なメディアとしての〈声〉を想定することで記号の外部性を抹消 (「自分が話すのを聞くje m’entendre parler」)
  12. サンプリングとしての記号読解 第 回日本記号学会 44 31 読み手の 内部モデル 外部表現記号 / サンプル

    書き手の 内部モデル 読み手の 内部モデル’ テクスト読解 アブダクション 内部モデル更新 外部表現記号 / サンプル 書き手の 内部モデル テクスト読解 アブダクション 読み手の 内部モデル’’ 内部モデル更新 テクスト読解 読み手が書き手の言おうとしていることの内部モデルをもち読み進めていく 行為をサンプル採取だと位置づけ、内部モデルでは予測ができなかった(驚 きを与える)文章が登場するたびに内部モデルを調整していくプロセスとして のテクスト理解の深化
  13. 第 回日本記号学会 44 35 記号の痕跡性(サンプル性)をめぐる二つの説 読み手がサンプルを十分に集めていけば書き手の内部表現(あるいは特定の 正解)に限りなく収束していくことが可能 ① 収束説 ②

    非収束説 どれだけサンプルを集めても解釈が収束に至ることはなく、むしろ解釈には拡散 のプロセスが原理的に埋め込まれている デリダの痕跡概念は後者を示唆するのでは
  14. 外部表現としての記号は必ず 「差異を生まない差異」を巻き込む 第 回日本記号学会 44 37 書き手の 内部モデル 書き手にとって 「差異を生む差異

    書き手にとって 「差異を生まない差異」 記号/外部表現 読み手の 内部モデル 読み手にとっての 「差異を生む差異」 書かれたものには、書き手にとって「差異を生まない差異」が必ず巻き込まれており 読み手はそこに「差異を生む差異」を見出すことが常に可能 読み手に推定さ れた書き手の 内部モデル
  15. 第 回日本記号学会 44 40 読み手の 『声と現象』モデル 読み手の 『声と現象』モデル 読み手の 『声と現象』モデル

    読み手の 『声と現象』モデル 読み手の 『声と現象』モデル 読み手の 『声と現象』モデル それぞれの 『声と現象』モデル それぞれの 『声と現象』モデル それぞれの 『声と現象』モデル それぞれの 『声と現象』モデル それぞれの 『声と現象』モデル それぞれの 『声と現象』モデル 家族的類似としての みんなが語る 『声と現象』モデル
  16. 第 回日本記号学会 44 44 ・予測処理の枠組みのなかで、読むという行為を内部モデルの調整 作業として位置付ける ・テクスト読解における「差異を生まない差異」を痕跡性と結びつける ・書き手もまた、書く行為のなかで「差異を生まない差異」を巻き込んでお り、書き手の内部モデルは原理的に決定不可能になっている(収束は理 念上も不可能)

    ・デリダの「痕跡」概念を、それを生み出した何かを確率論的に推定 させるサンプル性を示すものとして捉える ・哲学は、決定不可能な書き手の内部モデルをめぐっての読み手の内部 モデルの調整作業である(という側面がある)
  17. 第 回日本記号学会 44 45 参考文献 Clark, Andy. 2013. “Whatever next?

    Predictive Brains, Situated Agents, and the Future of Cognitive Science.” The Behavioral and Brain Sciences 36 (3): 181–204. ———. 2015. “Predicting Peace: The End of the Representation Wars.” In Open MIND. Johannes Gutenberg Universität Mainz. ———. 2023. The Experience Machine: How Our Minds Predict and Shape Reality. Knopf Doubleday Publishing Group. Dehaene, Stanislas. 2009. Reading in the Brain, New York. Fabry, Regina E, and Karin Kukkonen. 2018. “Reconsidering the Mind- Wandering Reader: Predictive Processing, Probability Designs, and Enculturation.” Frontiers in Psychology 9: 2648. Hohwy, Jakob. 2020. “New Directions in Predictive Processing.” Mind & Language 35 (2): 209–23. Kukkonen, Karin. 2014. “Presence and Prediction: The Embodied Reader’s Cascades of Cognition.” Style 48 (September): 367–84. Milette-Gagnon, A., and S. P. L. Veissière. 2022. “An Active Inference Approach to Semiotics: A Variational Theory of Signs.” In The Routledge Handbook of Semiosis and the Brain, edited by Adolfo M. García and Agustín Ibáñez. taylorfrancis.com. Olteanu, Alin, and Romanini, Vinicius. 2022. “Biosemiotic Achievement Award for the Year 2021.” Biosemiotics 15 (3): 395–99. Pietarinen, Ahti-Veikko, and Beni, Majid D. 2021. “Active Inference and Abduction.” Biosemiotics 14 (2): 499–517. ユクスキュル, ヤーコプ・フォン and クリサート, ゲオルク. 2005. 『生物から見た世界』. 日高敏隆, 羽田節子訳, 岩波書店. ヴァレラ,フランシスコ; トンプソン,エヴァン; ロッシュ,エレノア. 2001. 『身体化された 心 : 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』工作舎 ホーヴィ, ヤーコプ. 2021. 『予測する心』太田陽., 次田瞬., 林禅之, 三品由紀子, and 佐藤亮司訳, 勁草書房 デリダ, ジャック. 1970 『声と現象』高橋允昭訳, 理想社 江川晃. 2017. “パースの情報記号論: 無意識過程における脳活動への脳-記号論的 アプローチ.” 論理哲学研究= Journal of Logical Philosophy, no. 10: 23–37.