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指標資源論の拡張とスティグマ研究の 批判的再検討 ―FNIR概念によるヘイトスピーチの再定義―

指標資源論の拡張とスティグマ研究の 批判的再検討 ―FNIR概念によるヘイトスピーチの再定義―

本発表は、アイデンティティ構築において一方的に課されるネガティブな要素を「FNIR(Forced Negative Indexical Resources:強制されたネガティブな指標資源)」として新たに概念化し、その有効性を論じるものである 。指標資源とは、人がアイデンティティを構築するために動員する言語的・非言語的な要素を指す 。FNIRは、主体の意図に反して強制的に割り当てられ(Forced)、社会的評価を損ない(Negative)、自己を説明する際に参照せざるを得ない資源(Indexical Resource)となる点が特徴である 。

本発表はFNIRの視座から、既存のスティグマ研究を批判的に再検討する 。マクロな権力構造を論じる「スティグマ権力論」と、ミクロな個人の対処法に注目する「スティグマ管理論」には断絶があると指摘 。FNIRは、個人が複数の指標資源の束(バンドル)を駆使する複雑な実践を分析する「バンドル分析」の視座を提供し、両者を橋渡しするものだと主張する 。

最終的に、この概念を用いてヘイトスピーチを再定義する 。ヘイトスピーチとは、単に個人を傷つけるだけでなく、特定の社会集団にFNIRを集団的かつ継続的に賦課することで、その集団が利用可能な指標資源バンドル全体の価値を構造的に劣化させる「アイデンティティ構築環境の汚染」であり、個人の戦略的実践を無力化する権力実践であると結論付けている 。

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Kanta Tanishima

August 04, 2025
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  1. 指標資源論の拡張とスティグマ研究の 批判的再検討 ―FNIR概念によるヘイトスピーチの再定義― JCA 54 第 回大会 個人研究発表 1 谷島貫太(二松学舎大学)

    日本コミュニケーション学会【関東支部会パネル】 ヘイトスピーチと現代の公的コミュニケーションの諸問題 ―2024年度関東支部研究会からの発展―
  2. 本発表の目的 3 【目的】 本研究は、アイデンティティ構築において主体に一方的に賦課されるネガティブな指標 資源を**「FNIR (Forced Negative Indexical Resources)」**として概念化し、そ の有効性を既存のスティグマ研究の批判的検討を通じて論証することで、最終的にヘ

    イトスピーチを、主体のアイデンティティ構築環境を劣化させる権力実践として位置づけ ることを目的とする。 本研究の新規性 概念提示: 「FNIR(強制されたネガティブな指標資源)」の提起 理論架橋: スティグマ研究における構造論と実践論の断絶を接続 社会分析: ヘイトスピーチを「アイデンティティ構築環境の汚染」として再定義
  3. 本発表の構成 4 1. 発表の目的と構成 •1.1. 本発表の目的と新規性 •1.2. 本発表の構成 2. FNIRとは何か?

    •2.1. 理論的基盤:指標資源論 •2.2. 具体例:場面に応じた資源の使い分け •2.3. 指標資源の複雑性:多価性と自動起動 •2.4. 具体例:指標の多価性と自動起動 •2.5. 強制されたネガティブな指標資源(FNIR)の提起 •2.6. 具体例:多価性を持つFNIR 3. FNIRとスティグマ研究 •3.1. FNIRの視座から見たスティグマ研究 •3.2. 批判的検討①:スティグマ権力論 •3.3. 批判的検討②:スティグマ管理 •3.4. 小括:FNIRが拓く〈バンドル分析〉の視座 4. FNIR概念とヘイトスピーチ •4.1. FNIR下での〈バンドル操作〉とヘイトスピーチ •4.2. 具体例:指標資源バンドルの再編成戦略 •4.3. ヘイトスピーチの再定義:アイデンティティ構築環境の汚染 •4.4. 結論と今後の展望
  4. 2-1. 理論的基盤:指標資源論 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 6 指標資源 (Indexical

    Resources) • アイデンティティは、固定的・本質的なものではなく、相互行為のなか で動的に構築される。 • その構築は、特定の社会的ポジションを指し示す(指標する)言語的・ 非言語的な「指標資源」を動員することによって行われる (Bucholtz & Hall 2005; Eckert 2012; 嶋田&三上2023)。 ⇒ すなわち自己とは、どのような「資源」をどのように用いるかという実 践そのもの
  5. 指標資源の例 カテゴリー 具体例(日本語の場合) 指標する社会的次元・ニュアンス モダリティ/語尾形式 終助詞「〜ね/〜よ/〜わ」「〜ぜ/〜さ」など 親密度・ジェンダー・世代感・カジュアル /フォーマル 人称形の選択 1人称「私/僕/俺」、2人称「あなた/おまえ/君」

    ジェンダー・上下関係・親疎 スタイル化された語彙セット 若者語(エモい、ガチ)/ビジネス敬語(ご査収ください) 年齢層・職業領域・サブカル文化 コード選択・コードスイッチ 日本語 英語の切替え、在日コリアンの混合使用など エスニシティ・教育歴・国際志向 音声変異・プロソディ ピッチの高さ、語頭無声化、語末伸ばし ジェンダー・地域・感情スタンス スクリプト・表記法 全角カナ語/ひらがな多用/絵文字・顔文字 オンライン文化・親密度・ジェンダー 呼称・敬称のレパートリー 先生/さん/ちゃん/殿/社長 など 職階・親疎・儀礼度 談話標識・フィラー 「ていうか」「まあ」「あの〜」 カジュアル度・世代・スタンス ジャンル化したレジスター アニメファン語、ビジネスメール文体、YouTuber口上 コミュニティ所属・役割定位 指標資源を使うことで特定のポジションに自らを投錨する
  6. 2-2. 具体例: 場面に応じた資源の使い分け JCA 54 第 回大会 個人研究発表 8 同じ人物でも、文脈に応じて資源を使い分け、異なるアイデンティティを構

    築する ▪ 友人との会話 ・動員される資源: 方言、俗語、タメ口、私服、プライベートな話題 ・構築されるアイデンティティ:「気心知れた仲間」 ▪ 就職の面接 ・動員される資源: 標準語、敬語、専門用語、スーツ、学業成績 ・構築されるアイデンティティ:「真面目で有能な学生」 ⇒ 主体は通常、アイデンティティ構築の資源を能動的に選択している
  7. 2-3. 指標資源の複雑性:多価性と自動起動 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 9 ただしこのプロセスは単に能動的かつ主体的な選択には還元できない 指標資源論が明らかにする複雑性

    (Bucholtz & Hall 2005, 2010) • 指標は多価的 (polyvalent) である: 同一の形式(例:特定の発音)が、文脈に応じて複数の社会的な意味の可能性 (indexical field)を同時に喚起する • アイデンティティ構築の二重性: 主体の能動的な「選択 (choice)」だけでなく、社会的な慣習や権力によって指 標が「自動的に起動 (invocation)」させられる側面も存在する。 ⇒ アイデンティティは「能動的な操作」と「受動的な拘束」のハイブリッドな産物 として生成される
  8. 2-4. 具体例:指標の多価性と自動起動 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 10 1) 多価性

    (Polyvalence) の例: • 「方言」という資源は、文脈によって「地元への親近感」(+)と「非標 準・非エリート性」(−)という両義的な意味を同時に喚起しうる • そのため、特定の文脈で方言を「選択」することは、意図しない評価に 繋がるリスクを伴う 2) 自動起動 (Invocation) の例: • 本人の意図や自己認識とは無関係に、外見から判断された性別に基 づき、「ちゃん」「くん」といった呼称や、「女性/男性らしい」役割期待 が自動的に起動される場合も • 主体の「選択」ではなく、社会的な規範による「拘束」という側面
  9. 2-5.強制されたネガティブな指標資源(FNIR) JCA 54 第 回大会 個人研究発表 11 【定義】 FNIR: Forced

    Negative Indexical Resources (強制されたネガティブな指標資源) 社会構造によって主体に一方的に割り当てられ、アイデンティティ構築プロセスに 追加コストを課すネガティブな指標資源 FNIRの構成要素 ・F (Forced): 強制性=主体の意図に反する一方的な賦課 ・N (Negative): ネガティブ性=主体の社会的評価を毀損する ・I (Indexical): 指標性=特定の属性と社会的な意味を不可分に結びつける ・R (Resource): 資源性=不本意ながらもアイデンティティ構築の参照点となる
  10. 2-6. 具体例:多価性を持つFNIR JCA 54 第 回大会 個人研究発表 12 FNIRは、特定の属性を持つ個人に対し、多価的なネガティブ・ラベルとして機能する 例:人種や民族、国籍、ジェンダー、心身の特性、あるいは特定の社会的属性(職業、

    趣味など)に関する、押し付けられた呼称やステレオタイプ →これらのラベルは、文脈によって中立的なカテゴリー指示にも、蔑視を帯びた排除の 記号にも変化しうる(多価性) これらのラベルに共通するFNIRの構成要素: ① 強制性(F):本人の自己認識と無関係に、社会的に賦課される ② ネガティブ性(N):そのラベルが喚起する否定的評価に苦しむ ③ 指標性/資源性(I/R):そのラベルへの言及を抜きにしては、自己の社会的立場を 説明することが困難になる
  11. 3-1. FNIRの視座から見たスティグマ研究 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 14 スティグマ研究は、ネガティブなラベリングがもたらす社会 的影響を長らく分析してきた。しかし、その理論的枠組み

    には、アイデンティティ構築戦略の捉え方をめぐる根本的 な課題が残されている 本パートでは、FNIRという分析概念を視座とし、主要なス ティグマ研究の理論的貢献と限界を批判的に検討する
  12. 3-2. 批判的検討①:スティグマ権力論 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 15 スティグマ権力(stigma power)

    (e.g., Link & Phelan, 2014) 理論的貢献 • スティグマを、特定の集団を排除する権力を行使するための「ネガティブな資 源」として捉える視座を提供 • 「FNIRの強制的な配布メカニズム」というマクロな社会構造を解明 理論的限界 • 主体のブラックボックス化:資源(FNIR)を運用するミクロな実践の能動性を 捨象 • 当事者によるラベルの再意味化や、パワー構造を攪乱する可能性(リクレイ ム)を捉えきれない
  13. 3-3. 批判的検討②:スティグマ管理論 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 16 スティグマ管理論(stigma management)

    (e.g., Goffman, 1963; Galinsky et al., 2013) 理論的貢献 • スティグマへの多様な対処戦略を豊富に記述・分類してきた。 理論的限界:単線的モデル • 資源の単線化: 複数の指標資源が絡み合う実際の相互行為を、単一のスティグマ に還元して分析。これにより、資源間のトレードオフや相乗効果を見過ごす • 運用戦略の過小記述: 当事者が指標資源の「束 (bundle)」を駆使して展開する、 複雑な組み合わせ戦略(例:地位+専門性+ユーモアの同時使用)を理論化できて いない(「カミングアウト」、「パッシング」などは単線的な戦略) • 構造との関連づけ不足: 結果として、FNIRを賦課する社会構造と主体による実践と の接続が依然として課題となる。
  14. 3-4. 小括:FNIRと〈バンドル分析〉の視座 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 17 従来のスティグマ管理論は、単一ラベルへの対処に焦点を当て、ラベルの束 (バンドル)を再編成しながら闘う当事者の戦略を捉えきれなかった。FNIRは、

    この束に強制的・ネガティブに滑り込む一枚のカードとして作用し、マクロ構造と ミクロ実践を橋渡しする FNIR = バンドルに差し込まれた “負のカード” • 強制性:主体が選べない • ネガ性:社会的評価を下げる • 指標性:相互行為で即時起動 〈バンドル分析〉の射程 1.複数資源の組み合わせ戦略(隠す/重ねる/転用)を可視化する 2.構造的ラベリングが、個人の資源プール全体をどう再配分するかを評価する 3.〈構造⇆FNIR⇆実践〉の循環モデルで権力と抵抗を統合的に説明する
  15. 4-1. FNIR下での〈バンドル運用〉と ヘイトスピーチ JCA 54 第 回大会 個人研究発表 19 〇

    これまでの議論の小括: FNIRは「強制され、コストを伴うが、資源でもある」という、極めて厄介な手札 本パートで問うこと: 1. 主体は、このFNIRという手札を他の多様な手札とどう組み合わせ、戦略的 実践を展開し、自らの構築環境を維持しようとするのか? 2. そして、ヘイトスピーチはそのアイデンティティ構築環境にどのような影響を 及ぼすのか?
  16. 4-2. 具体例:指標資源バンドルの 再編成戦略 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 20 当事者の実践は、単一ラベルへの対処ではなく

    複数のカードを組み合わせた多段階の戦略 【戦略例】 • ネガティブなカードをその他のカードと組み合わせる ポジティブな地位カードを提示し、直後にFNIRを自虐的に開示して笑いへ転化させる → 具体例:「〇〇大学の△△ですが、この外見なのでよく“ガイジン”扱いされます(笑)」 • 解釈のコードに介入する 言語や専門用語等のレジスターを意図的に切り替え、FNIRが持つネガティブな解釈枠自体を無効化・撹乱する → 具体例:(差別的な冗談に対し)急に流暢な英語で応答し、相手の土俵を無効化する • ネガティブなカードを重ねることでポジショニングをずらす 自ら他のネガティブなカードを重ねて「多重弱者」を演じ、FNIRへの攻撃の的をジョークで散逸させる。 → 具体例:「私、地方出身でオタクで人見知りなんで、“弱者男性デッキ”完成してますよ(笑)」 ⇒ 複数カードの「順序」「重ね方」「場面遷移」など、多様なアイデンティティ構築戦略が可能
  17. 4-3. ヘイトスピーチの再定義:アイデ ンティティ構築環境の汚染 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 21 〇

    ヘイトスピーチがもたらすもの: 単に個人の戦略的実践を妨害するに留まらない、特定の集団が利用可能な指標 資源バンドルそのものの構造的な価値毀損である 〇 ヘイトスピーチの再定義: 「特定の社会集団に対し、FNIRを集団的・継続的に賦課することで、その集団に 割り当てられた指標資源バンドル全体の価値と多価性を構造的に劣化させ、個々 の主体の戦略的実践を根底から無力化する権力実践」 ・ポジティブな資源(例:専門性)さえもが、FNIRとの強制的な接続により汚染さ れ、その価値を発揮しにくくなる。
  18. 4-4. 結論と今後の展望 JCA 54 第 回大会 個人研究発表 22 【結論】 1.社会的に強制されるネガティブな指標資源「FNIR」を概念化し、それを分析する

    〈バンドル分析〉の視座を提示 2.FNIRの視座からスティグマ研究を批判的に検討し、その「単線的モデル」の限 界を指摘 3.最終的に、ヘイトスピーチを、特定の集団に割り当てられた「指標資源バンドルの 構造的劣化」を引き起こす権力実践として再定義 【今後の展望】 1.理論: インターセクショナリティとバンドル分析の接続(複数FNIRの相互作用) 2.実証: 会話・SNS・UIログ等を横断する多層的なエスノグラフィの展開 3.社会: 個々人の指標資源バンドルの具体的な運用に寄り添ったミクロな対話の 回路の推進(ヘイトスピーチを生じさせないというマクロな対応に加えて)
  19. 参考文献 24 Bucholtz, M., & Hall, K. (2005). Identity and

    interaction: A sociocultural linguistic approach. Discourse Studies, 7(4-5), 585–614. https://doi.org/10.1177/1461445605054407 Bucholtz, M., & Hall, K. (2010). Locating identity in interaction. In N. Coupland & A. Jaworski (Eds.), The new sociolinguistics reader (pp. 430–451). Palgrave Macmillan. Eckert, P. (2012). Three Waves of Variation Study: The Emergence of Meaning in the Study of Sociolinguistic Variation. Annual Review of Anthropology, 41(Volume 41, 2012), 87–100. Galinsky, A. D., Wang, C. S., Whitson, J. A., An, H., Liljenquist, K. A., & Galvin, T. L. (2013). The reappropriation of stigmatizing labels: The reciprocal relationship between power and self-labeling. Psychological Science, 24(10), 2023–2031. https://doi.org/10.1177/0956797613482943 Goffman, E. (1963). Stigma: Notes on the management of spoiled identity. Prentice-Hall. Link, B. G., & Phelan, J. C. (2014). Stigma power. Social Science & Medicine, 103, 24–32. https://doi.org/10.1016/j.socscimed.2013.07.035 嶋田珠巳, 三上剛史. (2023). 言語使用とアイデンティティ構成―社会言語学と現代社会論の交差―. 社会言語科学, 25(2), 9–24.