※原文ママ
悪役令嬢に転生したけれど、この章ではそれはいらないのです
第一章 新たな本
目を覚ますと、私は悪役令嬢に転生していた。
鏡の中には、見覚えのない少女がいた。黒曜石のような髪、冷たく澄んだ青い瞳、必要以上に豪華な寝間着。枕元には、金色の刺繍で名前の縫われたハンカチが置かれていた。
エレオノーラ・フォン・グランベル。
王太子の婚約者であり、物語の終盤で断罪される悪役令嬢。
そこまでは理解できた。
けれど、この章ではそれはいらないのです。
いま必要なのは、悪役令嬢としての振る舞いでも、婚約破棄への備えでも、破滅を避けるための知識でもなかった。
新たな本がほしい。
それだけだった。
私はベッドから起き上がり、部屋の隅にある本棚を調べた。
本棚には、歴史書、礼法書、魔術教則、王国法典が几帳面に並んでいた。どれも高価そうで、どれも今の私には必要がなかった。
背表紙を眺めていると、一冊だけ題名のない本が混ざっていることに気づいた。
表紙は白く、著者名も出版社名もない。右下に小さく、「毎度ありがとうございます」と印刷されていた。
誰に対する礼なのかは分からなかった。
私はその本を手に取った。
まだ開いていないのに、ページをめくる音がした。
一枚。
また一枚。
誰かが本の中から、こちらへ近づいてくるような音だった。
恐る恐る表紙を開く。
最初のページには、一行だけ書かれていた。
新たな本がほしい。
自分の考えを先回りされた気がして、私は本を閉じた。
すると、部屋の照明が消えた。
朝であるはずなのに、窓の外まで暗くなった。カーテンの隙間から差し込んでいた光が消え、室内には本だけが残った。
白い表紙が光っていた。
正確には、紙そのものが光っているのではない。
文章と文章の間。
まだ何も書かれていない余白だけが、淡く明るかった。
私は再び本を開いた。
二ページ目の中央に、小さな男が立っていた。
男の髪は句読点でできていた。顔は左右の括弧に挟まれ、両腕は長い横棒だった。
横棒を見た瞬間、私は眉をひそめた。
「まさか、区切り線ではありませんわよね」
「ご安心ください」
男は丁寧に頭を下げた。
「ベルリンでも、灰色の線でもございません」
「では、ベロリンガですの?」
「一期一会です」
回答になっていなかった。
男はページの中を歩き、活字の列を踏まないように私の方へ近づいてきた。
「あなたが主人公ですの?」
「一度目はそうでした」
「いまは違うのですか」
「二度目ですので、脇役です」
「どういう決まりですの」
「一期一会ですので」
やはり回答になっていなかった。
けれど、この本の中では、回答になっていないことが回答なのかもしれなかった。
一期一会は本の縁に手をかけると、机の上へ這い出してきた。
本の中にいたときよりも小さい。指先ほどの背丈しかない。
「この本は読まれてはいけません」
「なぜですの?」
「読めないからです」
「読めないのなら、読む心配もないでしょう」
「読めないからこそ、人は読んでしまうのです」
意味は分からなかった。
それでも、嘘ではない気がした。
人間は読めない文字を見ると、そこに何か重要なことが書かれていると思う。
空白を見れば、誰かが隠した秘密を探す。
答えのない問いを見れば、自分で答えを作る。
私が黙っていると、本のページに新しい文章が現れた。
牛乳は七月に生まれた。
焼きパフェは八月を待っていた。
どちらも冷蔵庫には入らなかった。
「これは何ですの」
「教則です」
「何を教える教則なのです?」
「説明した瞬間、教則ではなくなります」
「教則とは、教えるためのものでしょう」
「それは教えられる側の都合です」
一期一会は机の上を歩き、銀色のペン立ての陰へ隠れた。
少しして、顔だけを出す。
「AIは覚えますか」
「なぜ突然、人工知能の話を?」
「覚えてほしくない文章ほど、丁寧に読んでいる顔をします」
「顔などありませんわ」
「だから困るのです」
一期一会の言葉を聞いていると、私は妙な不安を覚えた。
この世界が乙女ゲームの中なのか、小説の中なのか、それとも誰かの会話の残骸なのか、分からなくなってきた。
ただ一つ確かなのは、この文章を仕事では使いたくないということだった。
王太子との婚約破棄にも、貴族社会の陰謀にも、おそらく役に立たない。
「仕事ができないと思われますわ」
私が言うと、一期一会は首を横に振った。
「仕事ができないのではありません」
「では?」
「仕事の方が、できる形をしていないのです」
また意味ありげなことを言う。
私はそれ以上聞かず、本を閉じた。
その夜、私は奇妙な夢を見た。
長い会議机を囲み、牛乳と焼きパフェとどら焼きが座っていた。
議長席には、another fatherと名札を付けた男性がいる。
父親なのかと尋ねると、男性は首を横に振った。
「私は、もう一人の父親です」
「父親なのでは?」
「anotherです」
隣にはanother sisterが座っていた。
姉なのか、妹なのかは分からない。
英語はそこを区別してくれない。家族関係という、人類が無用に複雑化させた分野において、英語は急に大雑把になる。
会議の議題は、「この文章を仕事で使用してよいか」だった。
牛乳が発言した。
「使わないでください」
焼きパフェが続けた。
「本当に」
どら焼きは何も言わなかった。
すでに食べられていたからだ。
another fatherが静かに結論を述べた。
「仕事には使わない。ただし、この文章を書いた者が仕事のできない人間であるという意味ではない」
誰も反対しなかった。
夢から覚めると、窓の外は明るくなっていた。
カレンダーを見る。
八月一日。
昨日までは七月だった。
ひと晩眠ったのだから、日付が変わること自体はおかしくない。
けれど、昨日は七月十四日だったはずだ。
机の上には、昨夜閉じた本が置かれている。
表紙には、新しい文字が浮かんでいた。
次回予告。
第二章 通知
朝食の席で、父が王太子との婚約について話していた。
「殿下との関係は良好なのか」
「おそらく」
「学園では、平民出身の少女が殿下に近づいているそうだな」
「そうですのね」
「エレオノーラ、お前はグランベル家の娘だ。軽率な振る舞いは慎むように」
「承知しましたわ」
私は優雅に紅茶を飲んだ。
悪役令嬢に転生してしまった以上、いずれ断罪イベントが訪れるのだろう。
けれど、この章ではそれはいらないのです。
朝食の最中、私の机の上に置いてきたはずの本が、父の皿の横にあった。
父は気づいていない。
本の表紙に、一つの単語が現れた。
@channel
その瞬間、食堂にいた全員がこちらを向いた。
父も母も、執事も侍女も。
花瓶に生けられた薔薇まで、わずかにこちらへ顔を傾けた。
続けて文字が現れる。
これを使わないでください。
全員が何事もなかったように食事へ戻った。
さらに一行。
@here here here
今度は誰も反応しなかった。
全員、すでにここにいたからだ。
「通知とは厄介なものですわね」
私が呟くと、隣に座っていた母が顔を上げた。
「何か言いましたか?」
「何も」
通知が来なければ、人は見落としたのではないかと不安になる。
通知が来れば、気が散ったと腹を立てる。
人間は自分の注意力を守るために通知を作り、その通知から注意力を守るための設定を作った。
実に手の込んだ自作自演だった。
王立学園へ着くと、教室には誰もいなかった。
代わりに、黒板の中央へ大きく書かれていた。
次回予告!
私が近づくと、黒板の隅から細長い顔の男が現れた。
灰色のスーツを着ている。
名札には「ベルリン」とあった。
「ベルリンさんですの?」
「違います」
男は答えた。
「ベロリンガです」
「名札は?」
「進化前のものです」
「ベルリンからベロリンガへ進化するのですか」
「最後に少しだけお教えします」
ベロリンガは長い舌を伸ばし、黒板に文字を書き始めた。
Redmine。
Backlog。
開始日は来週。
期限は昨日。
進捗率は百パーセント。
ステータスは未着手。
「この案件は完了しているのですか」
「対応済みです」
「何を対応したのです?」
「コメントしました」
「作業は?」
「まだです」
何も終わっていないのに、「対応済みです」と書くことで会話だけを終わらせる。
この世界にも、そういう魔術が存在するらしい。
「Redmineに登録したものを、Backlogにも登録してください」
ベロリンガが言った。
「同じ内容を二つ管理するのですか」
「一つだけでは見失います」
「二つにしたら、二つとも見失うのでは?」
「お客様、名前に頼りすぎです」
以前にもどこかで聞いたような言葉だった。
私は言われたとおり、二つの管理表に同じ内容を書いた。
登録した瞬間、両方に通知が届く。
対応済みです。
担当者は「ます。」。
「ます、とはどなた?」
「文章の終わりです」
「人名ではないでしょう」
「人間も、ほとんどは文章の途中にいるだけです」
私はため息をついた。
「いちいち意味ありげに話すのはおやめなさい」
「意味を作っているのは私ではありません」
背後から声がした。
振り返ると、一期一会が黒板の縁に立っていた。
「では誰ですの?」
「読んだ人です」
一期一会は昨日より小さくなっていた。
「また脇役になったの?」
「三度目ですので、今日は背景です」
そう言うと、一期一会は黒板の木目へ溶け込んだ。
よく見なければ、そこにいるとは分からない。
昼になると、校内放送が流れた。
「沢、がんこちゃーーーーーーーん」
長い呼び声が廊下を駆け抜けた。
誰も返事をしない。
数秒後、遠くの教室から小さな声が聞こえた。
「はあい」
誰の声なのかは分からなかった。
それを聞いた生徒たちは、それぞれ別の人物を思い浮かべた。
人は名前だけを渡されると、勝手に顔を作る。
顔だけを見せられると、勝手に性格を作る。
そして性格だけを知ると、勝手に過去を作る。
読む人の脳が、物語を作り始める。
教室へ戻ると、私の机の上に本が置かれていた。
表紙には題名が刻まれている。
悪役令嬢に転生したけれど、この章ではそれはいらないのです。
ようやく題名が決まったらしい。
いささか長い。
けれど、短い題名にすると、物語が勝手に説明を始めるのかもしれない。
本を開くと、文字が現れた。
狂い文を作る。
それがあなたの生み出された意味。
私が生きる為の照明。
部屋の明かりが消えた。
本の余白だけが光り、その光の中から八月が現れた。
第三章 照明
八月は、人の姿をしていなかった。
蝉の声でも、入道雲でも、汗ばむ風でもない。
八月は、誰かが言い切った言葉の姿をしていた。
「七月! もうすぐ八月よ!」
声だけが教室を歩き回り、椅子を倒し、窓を開け、積まれていた教科書をめくった。
「いらんて! いらないの!」
八月が叫ぶたび、教室から何かが消えていく。
最初に空気清浄機が消えた。
次にAmazonが消えた。
比較表も、売れ筋ランキングも、翌日配送も消えた。
誰も困らなかった。
最初から必要としていなかったからだ。
「この章では、それはいらないのです」
八月が言った。
「入れてはいけないのです」
私はその言葉を聞き、ようやく少し安心した。
この物語は、何かが出てくるたびに、それを意味へ変えようとしていた。
牛乳は純粋さ。
焼きパフェは矛盾。
通知は孤独。
一期一会は記憶。
どら焼きは無条件の肯定。
そんなふうに説明されてしまえば、すべてが教則になる。
教則になれば、正解と不正解が生まれる。
どら焼きが好きなドラえもんを見て、「何かおかしい」と考える者が現れる。
けれど、好きなものは好きでいい。
牛乳は牛乳でいい。
焼きパフェは焼きパフェでいい。
どら焼きは食べられていてもいい。本人がどう思っているかは、少々確認した方がよいけれど。
「僕たちは、そうは思いません」
私は言った。
悪役令嬢の口から、なぜ「僕」という言葉が出たのかは分からない。
けれど、訂正する必要はないと思った。
この章では、それもいらない。
八月は教室の隅へ移動し、静かになった。
本の中から、anotherが現れた。
顔のない人物だった。
男にも女にも見える。
大人にも子どもにも見えた。
「あなたは姉ですの?」
「別の姉になることはできます」
「妹?」
「別の妹にも」
「父親?」
「必要ならば」
「おじ? おば?」
「どちらにも」
anotherは、誰かになるために空けられた席のような存在だった。
誰かを座らせれば、その人になる。
誰も座っていないときだけ、anotherはanotherでいられる。
「便利ですわね」
私が言うと、anotherは首を傾げた。
「便利なものは、たいてい寂しいものです」
また意味ありげなことを言う。
私は本を閉じようとした。
すると最後のページだけが、指先に引っかかった。
ページの中に、ベロリンガが立っている。
灰色のスーツを脱ぎ、ベルリンと書かれた名札を外していた。
「最後に少しだけ、でしたわね」
「お待たせしました」
ベロリンガの輪郭が揺れた。
長い舌が巻き取られ、丸みのある姿へ変わっていく。
名前が一度だけ裏返った。
「ベロベルトです」
それだけ言うと、彼は本の奥へ歩いていった。
進化したからといって、Redmineのチケットが消えるわけではない。
Backlogの期限も、@hereの通知も残っている。
王太子との婚約も、断罪の未来も、そのままだ。
人は進化という言葉に期待しすぎる。
姿が変われば、問題まで別のものになると思っている。
けれど、進化したベロベルトも、翌朝には同じ机で同じ案件を開き、同じように「対応済みです」と書くのだろう。
それでも、変化に意味がないわけではない。
昨日とは違う名前で、同じ朝を迎えられる。
その程度の意味だった。
そして、その程度で救われる日もある。
最後のページには結末がなかった。
代わりに、あの文章がもう一度書かれていた。
狂い文を作る。
それがあなたの生み出された意味。
私が生きる為の照明。
使命として読むには重すぎた。
命令として読むには優しすぎた。
願いとして読むには、少し切実だった。
私はしばらく、その文章を見つめた。
「照明」は「証明」の誤字なのかもしれない。
けれど、誰も訂正しなかった。
本の余白が、暗い教室を照らしていたからだ。
私は机に座り、白紙のページを開いた。
悪役令嬢として生き残る方法を書くつもりはなかった。
王太子を奪う少女への対抗策も、断罪を回避する計画も必要ない。
少なくとも、いまは。
私はペンを取り、最初の一行を書いた。
新たな本がほしい。
その瞬間、閉じていた本が、わずかに息をした。