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奈良の地誌研究における、最新の判明事項と研究の諸問題/nara_chishi_kenkyu

 奈良の地誌研究における、最新の判明事項と研究の諸問題/nara_chishi_kenkyu

奈良、特に旧奈良奉行所管轄下の「奈良町」地域には、近世以降、多くの地誌が残る
* 様式は様々
** 観光地としての寺社名跡を紹介したもの
** 町名ごとにまとめたものなど
* 江戸初期から昭和期まで、数え上げれば30近い作品、時代ごとの奈良の様子を伝える
その他、中世以前からの寺社、武家の日記、近世以降は町ごとの古文書なども多く残る
* 地誌ほどの網羅性はないが、古い時代の奈良の様子をうかがい知れる
筆者は地誌の様々な主題のうち、寺社など特定の事項に注目し、複数の時代の奈良の地誌を横断して比較
* その結果発見できた、いくつかのこれまで知られていなかった歴史を紹介
* そのような歴史がなぜこれまで判明しなかったか、奈良の郷土史が持つ課題について問題提起

Code for History

February 06, 2023
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  1. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    1
    『奈良の地誌研究における、最新の判明事項と研究の諸問題』
    大塚恒平
    発表者自己紹介
    専門:情報学、地理学、郷土史。Code for History 代表
    プロフィール:地図技術者 20 年の経験から、古地図アプリ Maplat を完成させる。Maplat の活用事例検
    討のために郷土史に取り組み始め、歴史学の諸問題を IT の力も用いて解決する活動 Code for History
    を提唱
    奈良の Maplat 作品:ぷらっと奈良(https://s.maplat.jp/r/naramap/)
    連絡先:[email protected]
    1. はじめに
     奈良、特に旧奈良奉行所管轄下の「奈良町」地域には、近世以降、多くの地誌が残る
     様式は様々
     観光地としての寺社名跡を紹介したもの
     町名ごとにまとめたものなど
     江戸初期から昭和期まで、数え上げれば 30 近い作品、時代ごとの奈良の様子を伝える
     その他、中世以前からの寺社、武家の日記、近世以降は町ごとの古文書なども多く残る
     地誌ほどの網羅性はないが、古い時代の奈良の様子をうかがい知れる
     筆者は地誌の様々な主題のうち、寺社など特定の事項に注目し、複数の時代の奈良の地誌を横断して
    比較
     その結果発見できた、いくつかのこれまで知られていなかった歴史を紹介
     そのような歴史がなぜこれまで判明しなかったか、奈良の郷土史が持つ課題について問題提起
    2. 主な先行研究
     村井古道著・喜多野徳俊訳註の『奈良坊目拙解』巻末に、附録記事として 26 件の地誌一覧
     内容に踏み込まず、書名と著者、年代が列挙されているのみ
     平井良朋の『近世奈良地誌小考(一)~(四)』
     内容に踏み込んで地誌を比較、喜多野の一覧から漏れた地誌も含め、15 件の地誌を比較
     金井寅之助の「『奈良坊目拙解』と『平城坊目考』」

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  2. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    2
     幅広い多くの地誌ではなく、特定の少数の地誌を比較
     これらの先行研究は、地誌全体の話題の取捨選択、著者の姿勢、文章構成や体裁についての比較
     特定の事項に注目し各地誌の記載を比較して何かを明らかにしようとした研究ではない
     特定の事項を明らかにするために地誌を比較した先行研究の有無
     挙げられないが、素人研究者である筆者は知見が少なく、十分に先行研究を探せたかは不明
     述べられるのは、事実として筆者が今回発見した事項は、過去に発見されなかった点のみ
    3. 筆者による地誌研究の成果
    3-1. 高畑鬼界ヶ島と菖蒲池町称名寺重文薬師如来立像の来歴
    拙稿(2022)で発表済みの内容、キーワード太字
    A. 調査を始めたきっかけ: 2017 年 12 月、江戸期の和州奈
    良之図(図1)の中に「き𛀙𛀙い𛀙𛀙゛嶋(鬼界ヶ島)」という
    記述を見つけたこと
     周辺の「新薬師寺」「鏡明神」「吉備塚」などは今に残
    るが、「鬼界ヶ島」は周辺(小字本薬師町地域)には残
    っていない
     「奥芝辻へひける」という但し書きも興味深い
    B. 他の絵図を確認: 18 世紀初頭から明治にいたるまでの絵図で、同様の「鬼界ヶ島」記述が残さ
    れている(表1)
    C. 地誌、史料での確認: 5 年以上の年月をかけ、各時代の奈良の地誌や、日記、公文書などでこの「鬼
    界ヶ島」がどう記録されているか調査。判明した関連事項含め、各地誌での記載内容を表2にまとめた
    図1 高畑町字本薬師町付近 1844 年
    元資料は国土地理院・古地図コレクション
    絵図屋庄八『和州奈良之図』より 左方が北
    表1 高畑鬼界ヶ島を描く奈良絵図
    ID 絵図名 年代 発行者 鬼界ヶ島表記 但し書き表記
    1 和州南都之図 1709(宝永 6) 南都山村和泉開板 き𛀙𛀙い𛀙𛀙゛しま 志𛂦𛂦゛つじやくしへひける
    2 春日大宮若宮御祭礼図 1742(寛保 2) 藤原仲倫 鬼界嶋 舊
    もと

    やく





    あと
    3 和州南都之図 1778(安永 7) 出版者不明 き𛀙𛀙い𛀙𛀙゛しま 志𛂦𛂦゛つしやくしへひけ(?)
    4 和州奈良之図 1844(天保 15) 絵図屋庄八 き𛀙𛀙い𛀙𛀙゛嶋 奥芝辻へひける
    5 和州奈良之絵図 1864(元治 1) ゑづ屋庄八 き𛀙𛀙い𛀙𛀙゛嶋 奥芝辻へひける
    6 和州奈良之絵図 1879(明治 12) 筒井庄治郎 き𛀙𛀙い𛀙𛀙゛嶋 奥芝辻へひける

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  3. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    3
    D. 江戸以降の地誌の記述で判明したこと:まず地誌に絞って調査
    1. 奈良市高畑町字本薬師町、現在の奈良教育大学構内付近に、江戸中期以前から鬼界ヶ島と呼ばれた
    一角あり。本薬師と呼ばれた薬師堂が存在。本薬師薬師堂は興福寺塔頭勧修坊の支配で、薬師如来
    立像と十二神将像が安置されていた
    2. 薬師如来立像は本薬師薬廃亡にあたり、やはり興福寺塔頭の勝南院の影響下で奥芝辻町(現在の奥
    芝町)に売却。ひとまず十二神将と共に先述の勧修坊(高畑町字山之上町付近)に移送。時期は寛
    永年間(1624-1644)頃
    3. 勧修坊にとどめ置かれた後、薬師如来立像は奥芝辻薬師堂へ移送。この際、僧侶が移送費を出し渋
    り、十二神将は送られず、以後行方不明。時期は万治寛文年間(1658-1673)頃
    4. 後に奥芝辻薬師堂も廃亡し、薬師如来立像は近隣の菖蒲池町日輪山称名寺に移送。山門脇の薬師堂
    に安置
    5. 本薬師薬師堂の薬師如来立像には、江戸時代の時点で源頼朝から南都の僧勧修坊聖弘に下賜された
    ものという伝説が伝わっていた
    E. 地誌以外の調査で判明したこと:地誌での判明事項やキーワードを元に調査
     『多聞院日記』天正 6(1578)年 8 月 15 日条で、勝南院がかかわる本薬師堂の、奥芝辻町への売却
    の記事が発見。奥芝辻への売却は 1578 年には成立。理由は不明だがこれにまつわり六方衆が罰を受
    けている
     近代の奈良市寺院明細帳で、奥芝町から称名寺への薬師如来立像の移動が 1879(明治 11)年 9
    表2 高畑鬼界ヶ島や本薬師薬師堂に関する奈良地誌、日記、公文書類の記述
    ID 地誌名/文書名 成立年代/
    記録年代
    関連記述がみえ
    る条名
    関連事項表記 説明
    1 多聞院日記 1578(天正 6) 8 月 15 日条 本薬師堂 * 勝南院の了解の元、本薬師堂が芝辻に売却された記

    * 理由は不明だが、この売却に伴い六方衆が罰せられ
    た記録
    2 奈良名所八重桜 1678(延宝 6) 寛俊坊
    鬼界ヶ島
    勝手明神祠
    鬼界ヶ島
    本薬師
    * 勧修坊を寛俊坊として記述
    * 俊寛流刑地から逃れ鬼界ヶ島に潜伏した伝説
    * 本薬師の薬師像の頼朝下賜伝説,勧修坊から奥芝辻
    薬師堂への売却に言及
    * 売却に勝南院が関わっている記述
    3 中野友山文庫
    奈良地誌
    江戸中期? 閼伽井町
    奥芝辻町
    鬼界 * 俊寛流刑地から逃れ鬼界に潜伏した伝説
    * 奥芝辻薬師堂薬師像がかつて高畑にあり,頼朝が下
    賜した伝説に言及
    4 奈良坊目拙解 1730(享保 15) 閼伽井町
    奥芝辻町
    鬼界島
    本薬師
    * 俊寛流刑地から逃れ鬼界島に潜伏した伝説
    * 本薬師の薬師像の頼朝下賜伝説,勧修坊から奥芝辻
    薬師堂への売却に言及
    5 大和名所図会 1791(寛政 3) 鬼界 鬼界 * 俊寛流刑地から逃れ鬼界に潜伏した伝説
    6 平城坊目考 1795(寛政 7) 閼伽井町
    奥芝辻町
    鬼界が島
    本薬師
    * 俊寛流刑地から逃れ鬼界が島に潜伏した伝説
    * 本薬師の薬師像の頼朝下賜伝説,勧修坊から奥芝辻
    薬師堂への売却に言及
    7 平城坊目遺考 1890(明治 23) 下高畠町
    奥芝辻町
    鬼界 * 俊寛流刑地から逃れ鬼界に潜伏した伝説
    * 奥芝辻薬師堂薬師像の頼朝下賜伝説,菖蒲池町称名
    寺への移動に言及
    8 奈良市寺院明細帳 1898(明治 31) 菖蒲池町称名寺 本薬師 * 薬師堂の薬師如来が本薬師と呼ばれ、元奥芝町にあ
    ったことを記録
    * 1878(明治 11)年 9 月に奥芝町から称名寺に移動
    9 大和志料 1914(大正 3) 閼伽井 鬼界カ島 * 地名の存在のみ言及
    10 奈良町風土記 1976(昭和 51) 本薬師町 鬼界ヶ島 * 古老の話として,鬼界ヶ島が奈良教育大学校舎内に
    あったという聞き取りに言及

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  4. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    4
    月である記録あり。この像は本薬師と呼ばれ、山門脇の薬師
    堂に安置された
     国指定重要文化財の称名寺薬師如来立像(図2、国立奈良博
    物館寄託)は山門脇の薬師堂に元あったもので、本薬師薬師
    堂起源である可能性高。先行研究では、この重文薬師如来立
    像は称名寺創建時からの伝来ではとしながらも断定は避けて
    おり(『なら仏像館 名品図録』)、来歴は未知であった
    これら全ての判明した重文薬師如来立像の移動来歴を図3で地図上に示す。
    F. なぜ過去に判明しなかったか: 明治以降の時代の特異性と地誌横断での研究の必要性が鍵
     本薬師と呼ばれていたことや昔高畑にあった事は、長い江戸期を経て明治初期までは断片でも伝わ
    っていたが、明治のごく短い間にあっという間に伝承が途絶え、来歴不明となった
     再発見においても、移動が複数の段階に分かれ、特定の時代の地誌だけでは記事の重要性が不明
     もっとも知名度のある奈良地誌『奈良坊目拙解』では、薬師像の移動は高畑鬼界ヶ島から奥芝
    辻町までにとどまり、重要文化財来歴につながる重要記述だと注視されなかった
     『平城坊目遺考』や『奈良市寺院明細帳』に記された奥芝町から称名寺への移動は、それぞれ
    の史料の知名度も低く、また隣町程度の移動のため、こちらも注視されなかった
     結果、注視すべき重要事項と認識されなかったので、『多聞院日記』からの関連記述発見もな
    かった
    図3 称名寺重文薬師如来立像の奈良市街内での移動来歴
    国土地理院 地理院地図(淡色地図)を元に加工
    図2 重文 称名寺薬師如来立像
    仏像集成5日本の仏像<奈良Ⅰ>より引用

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  5. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    5
    G. 残された課題: いずれも専門研究者の助力がなければ困難な領域へ
     1578 年には成立した奥芝辻への売却が、移動完了は 1658 年以降と、なぜ 80 年以上もの年月を費や
    したのか
     なぜ売却にあたり六方衆が処罰されたのか
     奥芝辻へ移されなかった十二神将はその後どうなったのか
     今のところ伝説に過ぎない、薬師像が頼朝によって下賜されたとする伝説に信憑性はあるのか
     源頼朝から薬師像を下賜されたとされる僧、勧修坊聖弘は、鎌倉では勝長寿院での供僧職であ
    ったが、その勝長寿院の仏像は、南都仏師成朝の作と記録。成朝系統の作風と称名寺重文薬師
    如来立像との比較により、見えてくることもあるのではないか
    3-2. 京終天神社(飛鳥神社)の来歴、由緒
    拙稿(2023)で発表済みの内容、キーワード太字
    A. 調査を始めたきっかけ:
     奈良市北京終町に存在する飛鳥神社(旧名京終天神
    社、図4)は現在、平城遷都の時期に高市郡飛鳥か
    ら、元興寺の鎮守社として一緒に平城京へ遷されたと
    する由緒を掲げる
     この由緒に裏付けとなる史料が全くないことに気づい
    た筆者は、2018 年 1 月頃より、史料に基づいて同神社
    の来歴を再編する活動を始めた
    B. 先行研究:主に『奈良町の南玄関 歴史と文化の扉をひ
    らく』より
     『大乗院寺社雑事記』の応仁 2(1468)年 10 月 15 日の
    条、明応 2(1493)年 5 月 14 日条に、京終周辺に「五
    条天神社」と呼ばれる天神社が存在した記録が残る
     もっとも知名度のある奈良地誌『奈良坊目拙解』で
    は、慶長年中に高畑村との水論で駿府にまで出向く訴訟になった京終町の住民が、北野天満宮に勝
    ちを祈願し、勝訴したため天神を勧請したとされる
     京終町の水論自体は、金地院崇伝の日記『本光国師日記』慶長 19(1614)年 6 月 12 日条に記述が残
    っており事実である
     『奈良坊目拙解』以外の地誌では、水論時に勝ちを祈願し勧請したのは富士権現であるとする記述
    もある
     先行研究では、「15 世紀から天神社が存在したにもかかわらず、17 世紀に再度天神が勧請される矛
    図4 京終天神の位置(弊論文より引用、他
    の掲載地名に関する説明は省略)
    地理院地図をもとに加工

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  6. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    6
    盾」ならびに「地誌によって、水論時に勧進された神が天神と富士権現の二説ある矛盾」に説明が
    つけられていない
    C. 地誌、史料での確認:京終村の水論と勝利祈願、勧請の記録について、地誌を横断して記述を比較し
    た(表3)
     見出し「伊勢春日に関する記録」とは、勝利祈願した神を勧請するまでは、京終の鎮守が伊勢神、
    春日神であったことに関する記述が地誌に存在するか否かである
     見出し「宝永大火に関する記録」とは、京終町が宝永 3(1706)年 5 月 6 日に大火に襲われ、京終
    天神社の神体神宝、古縁起、奈良踊の来由など全てが炎上し失われたことの記述である
    D. 水論で勧請されたのは天神か富士権現か:筆者が富士権現説を支持する論拠
     富士権現説の地誌の多くは、勧請前は伊勢春日が祀られて
    いたと明記。他方『奈良坊目拙解』では伊勢春日への言及
    がない。天理図書館保井文庫の『奈良町絵図』(図5)か
    ら、京終に春日社が祀られた時期があるのは明らか。それ
    に触れない『奈良坊目拙解』の記述には疑いが残る
     水論は駿府で行われたため、駿河の富士権現への祈願は自
    然である。当時の奈良から東国へのルートは宇治から大津
    に抜けるルート、初瀬街道ルート、伊賀街道ルートでいず
    れも京都を経由しない。京都北野天神に詣でるのは不自然
     富士権現説地誌の一部は、当時の観光案内的役割の書物。
    当時市場に出回っており、多くの目で検証されたことを期
    待でき、来歴はともかく、京終における富士権現の存在自
    体は事実であろう。『奈良坊目拙解』は科学的アプローチで評価は高いが、近代まで存在が広く知
    られておらず、同時代人による検証は不足している可能性
     宝永 3(1706)年の大火で京終天神の古縁起なども焼失したが、これを取り上げているのは『奈良坊
    目拙解』のみ。すなわち『奈良坊目拙解』は大火の発生後、京終天神の歴史がわからなくなってか
    ら成立した地誌。『奈良坊目拙解』自身が、京終天神の歴史は火事のためわからなくなったと前置
    表3 京終鎮守の勧請に関する地誌の記録
    ID 地誌名 発行年代 勧請した
    祭神
    水論の
    相手方
    伊勢春日に
    関する記録
    宝永大火に
    関する記録
    備考
    1 奈良名所
    八重桜
    1678(延宝 6) 富士権現 鹿野園村 あり −
    2 奈良曝 1687(貞享 4) 富士権現 鹿野園村 あり −
    3 中野友山文庫
    奈良地誌
    江戸中期? 富士権現 鹿野園村 − − * 伊勢春日記述はないが,京終町
    住人は春日刀禰子孫の記述あり
    * 京終町の条の中に、富士権現社
    とは別項目として、天神社の項目
    あり
    4 奈良坊目拙解 1730(享保 15) 天神 高畑村 − あり *京終町住人は春日刀禰子孫の記
    述あり
    5 大和名所図会 1791(寛政 3) 富士権現 − あり − * 水論の記録なし
    参考 平城坊目考 寛政年間 − − − − * 天神社に関する議論を呼ぶ記述
    なし
    図5 京終町 春日社 江戸初期
    元資料は Wikimedia Commons
    『奈良町絵図 天理図書館保井文庫蔵』より

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  7. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    7
    きしている
    E. 15 世紀の天神社との関係:筆者の仮説と裏付ける発見史料
    1. 元々京終には、由緒は不明だが少なくとも 15 世紀以降、五条天神があった
    2. 慶長年間の水論以降、富士権現が勧請された(勧請以前は伊勢社、春日社)
    3. 勧請以降の一時期、京終には天神社と富士権現が併存
    した時期があった
     傍証として、『中野友山文庫 奈良地誌』の京終
    町の項では、「天神社一座」と「富士権現ノ宮」
    が独立項目としてあるのを発見(図6)
    4. なんらかのきっかけで、天神社と富士権現が相殿で合
    祀された
     傍証として、『奈良坊目拙解』では京終天神社の祭神が記録されているが、天神社祭神で
    ある菅原道眞と、富士権現の祭神である木花開耶姫を含む、三神相殿となっている
    5. 『奈良坊目拙解』の執筆の頃には両社は一体化。大火による記録の消失もあり、富士権現の勧
    請経緯が天神社のものとして間違って伝わった
    F. 近代の由緒創作:
     宗教を国家が登記管理する時代になり、由緒の登録が求められるようになった
     推測ではあるが、合祀による小神社の廃止も行われた時代背景で、伝統ある由緒を示さなければ取
    りつぶされるといった危機感もあったのではないか
     『奈良坊目拙解』が再発見再評価されるのも戦後であり、各地誌へのアクセスも現代とは格段に困
    難な中、徒手空拳での由緒構築には創作も仕方ない一面もあったのではないか
     結果、明治、大正、戦後の3度由緒は作られた(表4)
     戦後の由緒は、奈良市史歴史編にまで無批判に取り入れられ正史扱いになってしまったのが大問

    図6 『奈良地誌』京終町の項抜粋
    表4 京終天神社の近代以降の由緒
    ID 時期 記録史料 社名 鎮座年 祭神 備考
    1 1896
    (明治 29)
    奈良市神社
    明細帳
    紅梅殿神社 寛仁 2
    (1018)
    天穂日命
    菅原道眞
    木花開耶姫
    * 春日大社禰宜、藤屋広根が勧請とする
    2 1918
    (大正 7)
    私祭調査書 紅梅殿神社 延喜 7
    (907)
    菅原道眞
    天穂日命
    木花開耶姫
    * 『大和名所考』
    (実在確認できず)を典拠とし
    て、菅原氏の荘園だった京終に道眞を祀ったと
    する
    * 木花開耶姫は上古以来の京終の産土神とする
    3 1952
    (昭和 27)
    京終天神社
    の由来につ
    いて
    飛鳥神社 養老 2
    (718)
    菅原道眞
    事代主命
    他 3 柱
    * 菅原道眞以外の祭神を総入れ替え
    * 『隆尊御記』
    『平城旧跡幽考』
    (共に実在確認
    できず)を典拠として、平城京遷都時に高市郡
    飛鳥から、元興寺鎮守社として共に遷宮してき
    たとする
    * 同様の由緒が、
    『本朝佛法最初南都元興寺由
    来』等に記された、奈良市西新屋町率川神社
    (旧名飛鳥神並社)の由緒として残っており、
    参考にした可能性

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  8. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    8
    G. なぜ過去に判明しなかったか: やはり明治以降の時代の特異性と地誌横断での研究の必要性が

     大火で来歴が分からなくなっていても、分からないままにおいておけたのが、明治以降に国家管
    理されるようになり、結果由緒の創作を余儀なくされた可能性
     先行研究者は、歴史と異なる由緒が語られても、学術的には切り離されているので問題ないとして
    いたが、事実として富士権現の問題などが判明していなかった以上、由緒と衝突してまで歴史を解
    明するという姿勢に鈍りがあったのではないか
     『奈良坊目拙解』は戦後に再発見され、他の地誌と比較の上で、科学的執筆アプローチを高く再評
    価された一級の奈良地誌。しかし逆に『奈良坊目拙解』だけを押さえておけばいいと過剰評価さ
    れ、「天神勧請」と「富士権現勧請」のように、他の全ての地誌が別の説を唱えていても、『奈良
    坊目拙解』の方が正しいと偏った眼で受け取られていないか。多くの地誌を比較し、フラットに評
    価する必要がある
    H. その他に判明したこと:
     京終天神社に存在した地蔵が浮き彫りになった石を、竿に用いた灯篭が、小堀遠州の目に留まり、
    江戸に持ち込まれて織部灯籠という灯篭の流行りの元になった可能性
     京終天神社本殿はかつて西面し、南の五条大路には面していなかったが、本殿が南面した理由と、
    その後 100 年ほどかけてゆっくり五条大路に接するようになった経緯
     京終天神社近くに古くから存在した、現存しない小社である鉾明神社(図5参照)の、正確なかつ
    ての存在場所の判明(図4)
    3-3. 東大寺知足院重文地蔵菩薩立像と、惣持院「文使の地蔵」の調査
    未発表、現在進行中の調査の現状報告
    A. 調査を始めたきっかけ:
     東大寺塔頭知足院の国指定重要文化財、厨子入り地蔵菩薩立像は、本、ネット記事、観光ボランテ
    ィア案内などで、「文使の地蔵」であるという俗説が紹介されることがよくある
     しかしその呼ばれる根拠などが必ずしも明確でないため、東大寺関係者の友人の依頼で、知足院と
    文使の地蔵について調査を開始した
    B. 俗説の震源判明:
     知足院と「文使の地蔵」についての初出は、1921(大正 10)年 7 月、東大寺の北河原公海長老が、
    東大寺発行の『雑華の林』に寄稿したコラム
     文使の地蔵とは、鎌倉時代に大仏殿再興に粉骨砕身の末病死した藤原行隆の娘が、父を偲んで
    地蔵の手に父への手紙を結んだところ、黄泉の父からの返答を持ち帰った伝説の地蔵
     この文使の地蔵が、現在は知足院に安置されていると長老は記述

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  9. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
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     後に筒井寛秀長老が、この件の詳細を 2006(平成 18)年刊の『誰も知らない東大寺』で言及
     文使の地蔵は、元は惣持院という塔頭(現在の鼓坂小)にあった(事実)
     惣持院は 1875(明治 8)年、寺門改革で廃寺(事実)
     その際文使の地蔵は知足院に運ばれたという話を、筒井師は北河原師から 1962(昭和 37)年に
    伝え聞いた(証言)
    この記事が独り歩きし、知足院の地蔵=文使の地蔵説が生まれた
    C. 地誌を調査:文使の地蔵、知足院の地蔵について、歴史上どうだったかを確認(表5)
    地誌によると、歴史上著名な東大寺内の地蔵は次の 5 つ
     知足院「春日御作の地蔵」: 14 世紀に一度盗難されたが、ほどなく発見され戻された記録あり
     惣持院「文使の地蔵」:高さ 3 尺(90cm 程度)、あの世の父に娘の手紙を送った伝説の地蔵
     真言院「小野篁作の地蔵」
     法華堂「恋の地蔵」:光明皇后作の伝説がある坐像
     念仏堂「夜泣地蔵」:俊乗坊作伝説の坐像、胎内の小地蔵が夜泣地蔵
    また現在、国指定の重要文化財に指定されている地蔵菩薩像も 5 体
     知足院: 厨子入木造地蔵菩薩立像、97.2cm 高(図7)
     真言院: 木造地蔵菩薩立像、97.2cm 高
     法華堂:木造地蔵菩薩坐像、84.3cm 高
     念仏堂:木造地蔵菩薩坐像、胎内仏あり、221cm 高
     勧進所公慶堂:木造地蔵菩薩立像、快慶作、89.8cm 高(図8)
    表5 東大寺の地蔵に関する地誌記録一覧
    情報源 南都名所記 南都名所集 南都年中行事 奈良しぐれ 現在 備考
    年代 1667
    (寛文 7)
    1675
    (延宝 3)
    1740
    (元文 5)
    1736-89 頃
    (元文-寛政)
    2023 頃
    (令和)
    知足院 - 春日御作の地

    春日作の地蔵 霊験あらたか
    な地蔵
    木造地蔵菩薩立像、厨子入
    国指定重要文化財
    97.2cm 高
    14 世紀に一度盗難された
    惣持院 - 文使の地蔵
    3 尺高
    文遣の地蔵
    座像?
    文使の地蔵 - 塔頭としては明治 8 年廃寺
    勧進所内に寺名のみ残る
    真言院地蔵堂 小野篁作地蔵 小野篁作地蔵 - 小野篁作地蔵 木造地蔵菩薩立像
    国指定重要文化財
    97.2cm 高
    念仏堂 俊乗坊作地蔵
    胎内に 1 尺の
    小地蔵
    春乗坊作地蔵
    胎内に 1 尺の
    小地蔵
    陳和卿作地蔵
    胎内に夜泣地

    俊乗坊作地蔵
    胎内に 1 尺の
    夜泣地蔵
    木造地蔵菩薩坐像、胎内仏
    あり
    国指定重要文化財
    221cm 高
    法華堂 弘法大師作地

    光明皇后作地

    恋の地蔵、座

    光明皇后作地

    木造地蔵菩薩坐像
    国指定重要文化財
    84.3cm 高
    勧進所公慶堂 勧進所記載あ
    るが地蔵言及
    なし
    - - 勧進所記載あ
    るが地蔵言及
    なし
    木造地蔵菩薩立像、快慶作
    国指定重要文化財
    89.8cm 高
    現在の惣持院と同じく勧進
    所内にあり
    地蔵の江戸以前の来歴不明
    地蔵院 - - 地蔵院宝塔に
    地蔵
    霊験あらたか
    な地蔵
    文化財指定されていない地
    蔵がないか調査中
    明治以前、地蔵院は鼓坂に
    あった
    現在は真言院の南
    図7 重文 東大寺知足院
    地蔵菩薩立像
    鈴木(2011)より引用

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  10. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
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    D. 現状の仮説群: 仮説の証明にはさらなる調査が必要
     知足院の国重文地蔵菩薩立像は、文使の地蔵ではない可能性が高

     文使の地蔵が知足院に移された証言はあるが、知足院には
    元々有名な地蔵(春日御作の地蔵)があった
     少なくとも文使の地蔵、春日御作の地蔵のいずれかが失われ
    ている
     元々名の知れた歴史ある本尊があるところに、他塔頭廃寺に伴
    い運び込まれた尊像に本尊を置き換える蓋然性は低い
     もっともありそうな仮説:勧進所公慶堂の快慶作地蔵菩薩立像が文使の地蔵ではないか
     地誌に残る有名な東大寺の地蔵は 5 体、現在国重文の地蔵も 5 体、東大寺外に流出していなけ
    れば全て対応付くのでは
     文使の地蔵は明治になって惣持院の廃寺後、行方不明
     一方、勧進所公慶堂の地蔵は 1906(明治 39)年 9 月 6 日に重文に指定されたが(官報)、それ
    以前の来歴が不明、地誌にも残らない
     塔頭惣持院は廃されたが、院名は勧進所内に残る。文使の地蔵も、元居た惣持院が引き取られ
    た勧進所に移され、公慶堂に安置されたのではないか
     この仮説の問題点:
     移された記録(エビデンス)が残っていない
     文使の地蔵が知足院に行った、自体が記録ではなく証言である。知足院経由だけ
    でなく直接移った可能性含め、文使の地蔵の行く先を調査する必要がある
     南都年中行事では「文使の地蔵は坐像」とされている
     その他の仮説:ありそうなものから突拍子もないものまで
     知足院本尊の前に据えられている、御前立の地蔵が文使の地蔵
     行き先はどうあれ、知足院の本尊は文使の地蔵に入れ替わっている、行方不明なのは春日御作
    の地蔵の方
     文使の地蔵は東大寺外に流出した、あるいは最悪廃棄された
     知足院本尊の春日御作の地蔵は厨子内の秘仏であった
     14 世紀に一度盗難にあっている記録
    => すぐに発見されたとされているが、実は近代まで厨子内は空だった?
     明治後、惣持院の文使の地蔵が知足院に移動 => 厨子内に据えて本尊にした?
    図8 重文 東大寺勧進所公慶堂
    地蔵菩薩立像
    鈴木(2011)より引用

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  11. なら学研究会【36】報告
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     まずありえない説だが、可能性はゼロではないので棄却されるまでは保持
     仮説を証明するには: 東大寺の協力が不可欠
     ありえない仮説を棄却するための調査などを受け付けてもらうため、職業研究者からのアプロ
    ーチが必要
    E. なぜ俗説が蔓延したか:やはり明治以降の時代の特異性と地誌横断での研究の必要性が鍵
     鎌倉時代にまで遡る伝説があり、地誌にも記され何百年にもわたり取り上げられた有名な文使の地
    蔵が、明治に惣持院が廃寺になった以降のほんの数十年で行き先が追跡できなくなった
     語り継がれてきた伝説などへ社会が払う意識が、明治で大きく変わったのではないか
     豊富な地誌に複数あたればありえないと判明するにもかかわらず、1 つの証言で俗説が固まってしま

     地誌の包括的な検証、およびその社会への周知が不足している
    4. 奈良の地誌研究、郷土史研究の諸問題
    4-1. 豊富な地誌への関心の不足、あるいは地誌が多すぎる故の個別地誌への相対的関心低下
     2 桁冊にも及ぶ数の地誌
     地誌はどれを読んでも同じで退屈感(同じ町名、同じ寺社、同じ伝承、竈数や人数が変わって
    も…)
     似ている部分が多いからこそ、違う部分を見つけるとそこに宝がある可能性
     時代が変わって変化があったことを示している可能性
     全く違う伝承が見つかることもある(肘塚は悪左府の肘が埋まった塚@天理図書館保井文
    庫奈良しぐれ)
     『奈良坊目拙解』への過度な偏重
     戦後、『奈良坊目拙解』が再発見再評価された際、それまでの主要地誌であった『平城坊目
    考』は『拙解』の剽窃本だと強く批判を受けた事があった(金井 1952)
     しかしその反動で、『奈良坊目拙解』1 つが過度に重要視され、『拙解』を押さえておけば安心
    といった風潮になっていないか
     富士権現勧請の経緯のように、『奈良坊目拙解』も誤った記事はある。時代の変化に気付くた
    めにも、多くの地誌に目を通すべき
     これらの理由からか、奈良では口語訳されている地誌は『奈良坊目拙解』しかない
     翻刻されている地誌はもう少し多いが、全体に比べまだ少なく図書館等でしか見られない
     地誌だけでなく、町毎の古文書なども、活字化されているものは数冊しかない

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  12. なら学研究会【36】報告
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    4-2. 明治という特殊な時代への興味不足
     歴史は経た時代が長ければ失われるのではなく、残そうという意識が失われれば失われる: それが
    急速に広がったのが明治という時代
     何百年も伝えられてきた伝承や歴史が、ほんの数十年で忘れ去られる
     新しくできたルールのために、存在しなかった伝承を生み出すことを余儀なくされる
     この時代に起きたことに興味を持ち、正しく再構築しなければ、それ以前の歴史も正しく構築でき
    ないのではないか
     しかし奈良では、平城京と奈良町の時代が偏重されすぎ、明治への興味が薄いように感じる
     明治期の地方新聞である『日新記聞』や、『寺院・神社明細帳』なども活字化されていない
    4-3. 個別寺社などの来歴調査は職業研究者の研究対象とはならないのか
     職業研究者は、研究を通じた新しい歴史の見方の構築が責務であり、個別の寺社や文化財の来歴調
    査が仕事ではないと言われたことがある
     寺社等の来歴調査に意味がないという意図ではなく、それらが時に歴史の見方を変え得ること
    は理解しつつも、それでも職業研究者はそれに時間を割けないという言い方をされていたが…
     個別寺社調査が仕事ではないと「仮に」しても、地誌の比較検証は仕事にはならないのか
     群馬の方では、異なる地誌どころか、同一縁起本の諸写本を比較して、地域の文化史を再構築
    しようとする研究を聞いたことがある(内山 2022)
     異なる時代の異なる地誌があれば、その比較は当然に歴史的研究対象になるのでは
     個別寺社の来歴調査そのものが直接研究対象とならなくとも、地誌の比較をしていれば当然に
    新しい発見ができていたのではないのか
    4-4. 民間で俗説が広まっていても、アカデミックが理解していればそれでよいのか
     民間で俗説が広まっていても、職業研究者が俗説は間違っていると理解していればそれでよい、と
    言われたことがある
     実際、知足院の本尊地蔵菩薩立像を「文使の地蔵」だと考える研究者は、私が調査しなくても
    おそらくいなかったであろう
     しかし、俗説も否定しなければ定説になってしまう:奈良の歴史家先達は、俗説と戦ってきた
     西新屋町率川神社は、過去飛鳥神並社であったが、俗説が生まれ江戸期に定着したもの
     村井古道(『奈良坊目拙解』西新屋町の条、喜多野徳俊訳、抜粋):「近世率川明神と号すが
    良くない説で(中略)正さなければならない」
     奈良の歴史家の伝統を継いで、現在の研究者も、積極的に俗説をただすべきではないか
     ましてや、奈良市史などに混入して正史化しかけている俗説に対してはなおさら

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  13. なら学研究会【36】報告
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     「個々の社寺の来歴は専門家の仕事ではない(市井の仕事)」ならばさらになおさら、市井の
    知識レベルをニュートラル化する必要がある
    5. Code for History としてのアクションと提案
    5-1. 地誌などの翻刻、口語化、活字化
     地誌、史料の出版、翻刻、口語化により、市井の人々が地誌に触れる機会は格段に増えている
     『中野友山文庫 奈良地誌』出版、『平城坊目考・遺考』再出版
     『日本名所風俗図会』や『奈良曝』翻刻発行
     『奈良坊目拙解』口語訳発行
     翻刻や口語訳化、そのオープンデータ化を進め、市井で地誌研究できる基盤を充実させる
     既存事例:村井古道『奈良曝布古今俚諺集』口語訳
    URL: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:奈良曝布古今俚諺集現代語訳.pdf
     予定:中野友山文庫『奈良地誌』、天理図書館保井文庫『奈良しぐれ』、奈良県立図書情報館
    『奈良佐良志』『日新記聞』など
     新しい事象を発見する目を増やしたり、共同で翻刻や口語訳を進めたりするために、地誌を横断し
    て共有する試み
     著作権や利用規約に配慮しつつ、部分限定共有として公開を進めている(図9)
    URL: https://drive.google.com/drive/folders/1f8JhmeNw657NFFGRv013mv_c3Esx-
    Y_M?usp=share_link
    図9 奈良地誌関連共有用クラウドフォルダ

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  14. なら学研究会【36】報告
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     参考:鹿児島歴史史料防災ネットワークによる類似の取り組み(図10)
    5-2. 調査のノウハウを伝える
     史料へのアクセス
     ネット公開:「国会図書館デジタルコレクション」「奈良県立図書情報館まほろばコレクショ
    ン」「国際日本文化研究センターの各データベース」他、図書館・研究機関のデジタルデータ
    公開サイト
     各図書館の閉架図書、複写、遠隔複写(リファレンスでの特定後)
     古書購入:日本の古本屋、ヤフオク
     史料内の情報検索(書籍横断又は書籍内発見)
     ネット検索:「Google ブックス(検索結果から図書館へ)」「国会図書館デジタルコレクショ
    ン全文検索(最近、機能拡充+古典籍も検索可に)」他、各図書館デジタルデータ公開サイト
    の検索機能、ジャパンナレッジ、新聞過去記事検索(図書館)
     図書館のリファレンス:メールやフォームでの遠隔受付も行っている、やっていると書いてな
    い図書館でも「お問い合わせ」に送ればたいてい対応してくれる
     索引本:『大乗院寺社雑事記』『多聞院日記』等、有名史料には索引があるものがある:調査
    対象のキーワードが判明している場合は、新たな発見につながりやすい
     地図は重要なデータソース
     近世絵図:天理図書館保井文庫奈良町絵図、絵図屋庄八の各時代絵図、近代の観光地図など、
    図10 鹿児島歴史史料防災ネットワークによる「古文書クラウド」の取り組みとその意義
    (第 9 回全国史料ネット研究交流集会 in 宮崎 ポスターセッション資料より引用)

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  15. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
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    比較すると地誌のように変化が見つかる場合がある
     近代古地図:今昔マップ on the Web(https://ktgis.net/kjmapw/)、開発前の街並みや道路
    網を確認
     地番図、土地登記図:町境界・飛び地などがわかる(これを使うべきというよりは、使えるも
    のは何でも使う姿勢)
    5-3. 新しい時代の『奈良市史』刊行を訴える
     現在の奈良市史は、1970 年~1995 年刊行(通史発行が遅れたが、通史を除けば~1985 年)
     他地域の事例では、群馬県の『館林市誌』が 1966 年~1969 年刊行、『館林市史』が 2004 年~
    2021 年刊行。市史編纂事業が数十年プロジェクトであることを考えると、早すぎるということ
    はない
     現行奈良市史は由緒を批判なく取り込んだ結果、偽史の正史化といった問題まで起こしている
     多くの地誌や各町の古文書、『日新記聞』などの初期地方紙、『寺院・神社明細帳』などの公文書
    まで、翻刻や口語化、活字化は、本来は市史編纂事業として行うべきではないか
     現行市史の問題解決と、新たな市史研究展開の端緒を作るために、新時代の『奈良市史』刊行を訴
    えていきたい
    6. むすびに
     奈良には豊富な地誌が残されているが、その比較研究は十分に行われているとはいえない
     一方で奈良の地誌や史料は、専門の研究者でなくともかつてより格段にアクセスしやすくなってい
    る、また Code for History もより状況を改善していく
     たくさんの目で見れば、きっとまだまだ興味深いテーマが見つかるはず
     掘り下げると興味深そうなキーワード:
     景清地蔵(勝願院、景清地蔵堂、景清辻子)、佐保姫明神、佐保田天神(西天神、狭岡神
    社)、月日神社(手分の森、惣宮社)、蜂屋神社(蜂屋辻子)、北向荒神、法界寺(法界
    寺辻子)など
     筆者も随時取り組むため、取り組みが衝突するかもしれないが
     一人で黙々と研究するより、多人数で意見交換した方が研究も進む、気軽に声をかけてほしい

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  16. なら学研究会【36】報告
    令和 5 年 2 月 5 日
    16
    ≪参考文献≫
     大塚恒平「絵図・地誌から解き明かす重要文化財の来歴―奈良・称名寺薬師如来立像の来歴と高
    畑鬼界ヶ島に関する調査―」『地理交流広場』第 5 号 地理屋交流会&みんなで地理プラーザ!
    2022
     大塚恒平「地誌・絵図を活用した地方鎮守社の歴史復元―奈良・京終天神社とその周辺の歴史検
    証―」『地理交流広場』第 6 号 地理屋交流会&みんなで地理プラーザ! 2023
     久野健編『仏像集成 5 日本の仏像(奈良 1)』学生社 1993
     村井古道著、喜多野徳俊訳・註『奈良坊目拙解』綜芸舎 1977
     平井良朋「近世奈良地誌小考(一)」『大和文化研究』第 9 巻第 8 号 大和文化研究会 1964
     平井良朋「近世奈良地誌小考(二)」『大和文化研究』第 9 巻第 11 号 大和文化研究会 1064
     平井良朋「近世奈良地誌小考(三)」『大和文化研究』第 11 巻第 11 号 大和文化研究会 1966
     平井良朋「近世奈良地誌小考(四)」『大和文化研究』第 13 巻第 12 号 大和文化研究会 1968
     金井寅之助「『奈良坊目拙解』と『平城坊目考』」『藝林』第 3 巻第 5 号 藝林社 1952
     貫達人『鎌倉の廃寺 勝長寿院・永福寺・法華堂・大慈寺(鎌倉国宝館論集 第 5)』鎌倉市教育
    委員会 1961
     元興寺文化財研究所編『奈良町の南玄関 歴史と文化の扉をひらく』京阪奈情報教育出版 2021
     鈴木喜博「いわゆる春日地蔵について(上)」『奈良国立博物館研究紀要 鹿園雑集』第 13 号
    奈良国立博物館 2011
     内山侑子「『赤城根元記』の特徴と性質-「赤城山縁起」諸本研究の進展として」群馬歴史民俗
    研究会令和 4 年 12 月例会報告レジュメ 2022
     鹿児島歴史史料防災ネットワーク 第 9 回全国史料ネット研究交流集会 in 宮崎 ポスターセッシ
    ョン資料 2023

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