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高札場の歴史事例研究(館林・奈良) ―道路元標の置かれた場所の前時代史―/nara-tatebayashi-0km-post

高札場の歴史事例研究(館林・奈良) ―道路元標の置かれた場所の前時代史―/nara-tatebayashi-0km-post

地理交流広場号外 道路元標研究 第1号(https://booth.pm/ja/items/3635897)に掲載していただいた奈良と館林の道路元標に関する論文です
第2号が公開されたので、旧号の記事を公開データにしました。

同人誌掲載版との差は、榊原康政の名前に誤植があった(康正)のを修正しています。

Code for History

October 19, 2022
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  1. ―1― 高札場の歴史事例研究(館林・奈良) ―道路元標の置かれた場所の前時代史― 大塚 恒平(Code for History) キーワード:札の辻,道路元標,里程元標,館林,奈良,歴史,伝説 I 街の中心が成立した歴史への注目

    この冊子に参加しながらも筆者は道路元標という ものに詳しくなく,近代以降の道路整備の起点にな った場所らしい程度の認識しかない.が,筆者の知 る2つの街の道路元標は,偶然か必然かは不明なも のの,いずれも近世以前に高札場,札の辻などと呼 ばれた場所と一致した地点に設置されている.近代 道路整備の起点を街の中心と考えるならば、近世ま での街の情報センターであった高札場が選ばれやす いことは,推論として無理が少ないであろう.実 際,道路元標整備を指示した公文書でも,高札場へ の設置を意識した記載の例もある1) . 道路元標の設置箇所に高札場が選ばれやすいので あれば,なぜその地がその街の中で中心地となった か,高札場に選ばれたかについて知ることも道路元 標の理解の一助になるのではと考え,私の知る2つ の街について高札場の歴史を紐解いてみる. Ⅱ 館林の事例 1.広がる市のピボットとしての大辻 群馬県館林市の高札場は八王子と日光を結ぶ街道 としての日光脇往還(現代では本町通りと呼ばれ る)が南北の道,竪町(たつまち)通りが東西の道 として交わる四つ辻に位置し,大辻あるいは札の辻 と呼ばれていた(図1) (図2) .南北の通りは大き な街道なので理解できるが,東西の通りは都市機能 の視点から見ると,竪町通りの一本北に位置する並 木町通り=古河往還の方が館林城大手門から太田口 を結ぶ,多くの城下町では大手通りとなると思われ る道にあたるため,東西どちらの端も突き当たる竪 町通りより一見街の中心にふさわしく思える.にも 図2 嘉永元年館林城下地図での大辻 高札場は大辻の東南一隅に見える 図1 館林市の大辻とその周辺
  2. ―2― かかわらずなぜ竪町通り沿いが高札場に選ばれたの か,その理由を考察する前に,まず街の発展過程を 追ってみよう. 館林の街を賑わす市が最初に設置されたのは,大 辻の東,大手門周辺との間に広がる連雀町と呼ばれ る一角であった.1584 年(天正 12 年)

    ,この地に住 む小寺丹後が,旅のうゐろう売り(薬売り)を通じ て小田原の北条氏直へ市創設と市神の勧請を申し出 た.その結果,許可されて連雀町に市神(牛頭天 王)が奉斎され,六斎市が設置された.六斎市とは 月に6回開かれる市のことで,館林では3と8のつ く日に開かれた(福田 1932:31-32) . 盛況となった市はやがて連雀町だけでは手狭とな り,連雀町には古着市を残して,六斎市は大辻を要 として連雀町に連なる町である足利町(大辻の 北) ,竪町(西) ,谷越町(南)の3町持ち回りで開 催されることとなった.3町が各月2回ずつ、都合 月6回開催される形である.市だけではなく市神 も,牛頭天王社が3町それぞれに奉斎されるように なった(館林市立図書館 2003:32-33) . 大辻はこの4つの市の町をつなぐ要として,人流 のハブとなり高札場の設置にふさわしい場所として 機能した. 近代以降になると,この大辻を基点としてまず明 治に高さ二間余りの木製の里程元標が,大辻の東南 一隅に設置され,1925 年(大正 14 年)の道路法施 行に伴い石製の道路元標に置き替えられ,大辻の西 南一隅に移された.これが,場所こそ再度東南に移 動したものの,現在も残る館林町道路元標(図3) となる(福田 1932:86-87) . つまり,旧市から新市へ町が広がる要,ピボット 地点として大辻があり,そこがまさに街の中心とし て機能し,近世までは高札場,近代には道路元標が 設置されたということになる. 2.計画された大辻中心の街づくり では,この大辻中心の街の発展は,自然発生的な 広がりであったのか,それとも計画されたものであ ったのかを見ていこう. (図1)に表れるような館林の町名の一部は,古 くは 1556 年(弘治2年)に赤井照康により青柳城 下から移されたものである.当時の青柳周辺は,15 32 年(天文元年)の赤井照光による館林築城前の赤 井氏故地であり佐貫町と呼ばれたが,その下には既 に連雀町,竪町,並木町と言った町名があった.照 康はそれらの町の住民を町名ごとごっそり,館林町 下に移した.館林城下といっても,赤井氏時代は現 在地ではなく,現在地から見て東方,館林本城の北 にあたる外加法師と呼ばれる地域を中心に城下町建 設が進められ,移転した3町もそこに配置された2) (福田 1932:28-29,福田 1973:72-73) . 現在地への移転は 1570 年(元亀元年)に長尾顕 長が館林城主となって以降であり,顕長はおそらく は城郭拡張の意図をもって,定着間もなかった外加 法師の各町を再び本城の西側に再配置した.すなわ ち,大手門と古河往還を結ぶ道路沿いに並木町を, その南のやはり大手門付近に連雀町,連雀町のさら に西に竪町を,それぞれ配置したのである.加え て,連雀町と竪町の間に大辻を設けそこから南北の 通りを整備した.この新市街整備には足利から呼び 寄せられた小林彦五郎が担当することとなったが, その小林がやはり足利から呼び寄せた下役,人夫が 図3 館林市道路元標の現況 2018 年 5 月 3 日.筆者撮影
  3. ―3― 大辻の北側に多く住んだため,そのあたりは足利町 と呼ばれるようになり,南側は谷越村からの移住者 が多く住んだので谷越町と呼ばれるようになった. 大辻に高札場が置かれ始めたのも,顕長時代のこと であり,これは連雀町に市が開かれた 1584 年頃よ りもかなり先んじている(福田 1932:29-34,福田

    1973:76-77) . つまり時系列的に見ると,高札場は市よりも先に あり,市で賑わった場所に高札が設置されたのでは なく,街の中心となるべく設計された場所にまず高 札が置かれ,後にそこが狙い通り市として発展した のだということがわかる.この設計意図は町の配置 からも見て取ることができる.故地より移転した連 雀町,並木町,竪町のうち,前2者は大手門そばに 配置されているが,竪町は連雀町を越えた先に配置 されている.これは連雀町~竪町に沿って街を発展 させようという意図の表れと推察できる.また,福 田(1932:30-31)によると,連雀町という町名は 多くの城下町で連雀商人と呼ばれる商人が集まる商 業地帯として,大手門近くの一等地に設置されるこ との多い町名だということである.その町名を古河 往還沿いの道ではなくズラした位置に配置したとい うことは,元よりこちらを商業地として開発する意 図があったのであろう. では,なぜ古河往還からズラして開発しようとし たのだろうか.以下は筆者の推測になるが,顕長は 馬なども往来したと思われる街道に通じる道と,市 で繁盛混雑する道を分けたかったのではないだろう か.この推測の裏打ちになるかもしれない記録とし て,福田(1932:80-81)によると,大辻への高札 場設置の当初,高札は辻の中央に掲げられたとされ ている.辻の中央に高札があっても歩行者には邪魔 にならないだろうが,いかに自動車などがない時代 であろうと,騎乗の往来であれば邪魔になったであ ろう.別の言い方をすると,顕長の都市計画では市 が街道を往来する人々向けではなく,居住する町民 やせいぜい近隣の村々など向けに整備されたと考え られるのではないか. 続いて大規模な都市開発を行ったのは,1590 年 (天正 18 年)に館林城主となった榊原康政であ る.康政の事績としては,顕長の移した各町以外に も外加法師にまだ残っていた城下町を本城の西側に 再編し,さらに城下町を囲む土居と堀を築いて館林 城の惣構えを完成させたことが挙げられる.さらに 康政は,それまでは館林西方目車町付近,惣構え西 側を通っていた佐野街道(小田原街道)を廃止し, 南北の街道を城下町の中を通る日光脇往還として再 編したが,その際に足利町,大辻,谷越町を通る南 北の通りを拡張することで対応している(福田 197 3:79-81,館林市立図書館 2003:31) .顕長の都市 計画と異なり,街道を往来する人が大辻を通過する 形となったが,康政は街道を往来する人々を対象と した市に衣替えすることで,他地域との交易を育て ようとしたのではないだろうか.街道として利用す ることで邪魔になったのか,その後,高札場は大辻 の中央から東南の一隅に移されている3) . 3.創作作品にも現れた街の記憶 このように,館林の大辻,高札場は,方向性こそ 違うものの数度の都市計画によって街の中心として 育てられ,近代以降は里程元標,道路元標の地点と もなり,館林と他の地域を結ぶ基点として,大きな 歴史上の役割を果たしてきた. このような街の記憶を知ってかまた偶然か,大辻 は館林を舞台とした創作作品でも,館林とはるか遠 くの世界をつなぐ物語の起点の場として描かれてい る.2018 年,アニメ制作会社マッドハウスが製作し たオリジナルアニメ『宇宙よりも遠い場所』は,ニ ューヨーク・タイムズ紙の「The Best TV Shows of 2018」海外番組部門 10 作品のひとつに選出された ほど評価の高い作品であるが4) ,この作品は館林に 住む高校生たちがいくつもの障害を乗り越えて南極 観測隊のメンバーとなり南極を目指す成長譚であ
  4. ―4― り,ストーリーの前半が館林を舞台として繰り広げ られる. この作品の中で大辻は,主人公たちが南極へ向か うことを決断する大きな契機の場となったり,新た な仲間との出会いの場となったりと,はるか遠く南 極へと主人公たちを誘う起点の場,また同時に,南 極から成長した主人公たちが戻ることを目指す終点 の場,館林と遠い世界を結ぶ基点としての大きな役 割を果たしている.

    館林という町の始まった頃に街の中心として育つ ことを期待して築かれた大辻は,いくつもの時代, いくつもの想いを受け止めて,変わらず館林の中心 にあり続けつつも,時代に応じ遥かな土地とのつな がり,バーチャルな世界とのつながりの基点にまで その姿役割を変えてきた.今,館林では本町通りの 拡幅工事が続いており,多くの街の記憶をとどめる 建造物も取り壊しが続いている状況で,道路元標も 現在位置では保存を続けられないため,残るならば 移動を余儀なくされるはずである.このような変化 の中で,大辻自体もこの先どのように変わっていく のかは誰にもわからないが,しかし変わらずそこに あり続け,館林の街の変遷を見守り続けるだろう. Ⅲ 奈良の事例 1.橋本町と樽井町 – 地誌筆頭を争う町 - 奈良県奈良市の高札場は,奈良奉行所管内では全 部で 14 ヶ所に設置されたとされるが,ほぼ全ては 奈良町から外部への出入り口,及び周辺の村に設置 され,奈良町内に設置されたのは1ヶ所だけであっ た5) .街の中心に設置されたとみなせるその奈良町 内唯一の高札場は,橋本町の三条通り沿いに存在 し,その位置を踏襲した近代以降の里程元標,道路 元標などもこの町に存在した(図4) (図5) .現在 の道路元標,及び復元された高札と里程元標は,橋 本町と東隣の樽井町の境あたり,三条通り北側で手 力雄神社の崖下あたりに設置されている(図6) が,本来の位置は橋本町町域の真ん中あたり,三条 通りと餅飯殿商店街の辻の東南角あたりとされる. この橋本町,および樽井町は,それぞれがとても 小さな町域なのでほぼ同じ地域と言えそうな界隈で あるが6) ,この2町は近世奈良で執筆された代表的 な町別地誌で,筆頭の町としてどちらかが選ばれて いる.奈良でもっとも有名な地誌である村井古道の 「奈良坊目拙解」 (1730 年ごろ成立とされる) ,元禄 年間成立の中野友山文庫「奈良地誌」は橋本町派, 1687 年成立の嘯月堂「奈良曝」 ,寛政年間成立の久 世宵瑞「平城坊目考」は樽井町派である.いずれの 地誌でも,筆頭に選ばれなかったもう一方の町名 も,2番目もしくはそれに次ぐ・準じる順序で記さ れている7) .つまり橋本町か樽井町かのブレはあ 図5 天保和州奈良之図での高札場 高札場は餅飯殿町の入り口東側に見える 図4 奈良市の高札場とその周辺
  5. ―5― れ,この界隈が奈良町内の筆頭,代表する界隈であ ったことは明白である.次節では,なぜこの界隈が 奈良町の中心,筆頭とみなされたのかを考察する. 2.1300 年前の権力が形作った街の形 2015 年6月 25 日放映の

    NHK 番組「ブラタモリ」 でも特集されたように,奈良の街の高低差は奈良盆 地東縁断層帯に属する断層・撓曲群によって形作ら れている.まず猿沢池の北あたりの高低差は,佐保 田撓曲から率川の浸食で切り離された独立した撓曲 地形であり,さらに東に,麓に奈良坂撓曲を持つ御 蓋山がそびえる,東高西低の地形となっている8) . この奈良の地に 710 年(和銅 3 年) ,都・平城京 が遷されるにあたり,時の権力を牛耳っていた藤原 不比等は,藤原氏の氏寺であった藤原京の厩坂寺を 猿沢池北の撓曲地形上に移し興福寺と名付け,平城 京を高台から睥睨して藤原氏の威光を示した(奈良 市 1985:193) .768 年(神護景雲2年)にはさらに 高台の御蓋山に,藤原氏氏神を祀る春日大社も造営 された(奈良市 1985:32) . 筆者の私感であるが,1300 年も前の権力者が氏寺 と氏神を高台に配置し,氏族の威光を示そうとした この配置が,その後の橋本町樽井町が中心となる奈 良の街の構造に大きく影響を与えたのではないか. まず春日大社であるが,橋本町樽井町を貫く東西 の通り,三条通りは春日大社の一の鳥居,本殿へつ ながる参道であり,奈良の目抜き通りとして育っ た.三条通り自体は平城京の大路の1つであり,通 りの起源は平城京にまで遡るが,数ある東西の大路 のうち三条通りが特に栄えたのは,春日大社参道で あったことが無関係ではあり得ない. また興福寺については,橋本町樽井町付近より 東,佐保田撓曲の撓曲面以東, (図4)で現在登大 路町と記されている領域は,町方ではなく興福寺境 内であり,聖域となる.奈良の街を支えた聖と俗, その双方が交わる境界域にあたったのが,興福寺領 と町方の境であり,その境と三条通りの交わる橋本 町樽井町界隈が奈良町筆頭とされた原因ではなかっ たか. その中でも,樽井町と橋本町の果たす役割には差 もまた見てとれる.まず樽井町だが,樽井町と猿沢 池の間を通って南に降りる通りの先は,そのまま奈 良と南大和をつなぐ古代からの街道「上ツ道」とな る.つまり街道へ旅に出る,街道から着き旅を終え る人の町,外向きの町という役割を樽井町は持ち, 実際古くから樽井町には多くの旅籠や馬借場,土産 屋,駕籠屋などが立ち並んでいたと記録されている (増尾 2009:40) .現在もその名残かホテル天平な らまちがこの地で営業している. それと比べ,橋本町は奈良町の住人向けの,内向 きの町と言える.橋本町からは南に餅飯殿通り,北 には東向き通りといった,かつて平城京東六坊大路 であった通りが延びているが,それを通じて南は旧 元興寺境内に育った現代でいう「ならまち」 ,北は 奈良奉行所などもあった現代でいう「きたまち」に つながっている.この通りはこれら奈良町の南北を つなぐ軸であり,東西の軸である三条通りとの交点 である橋本町が内向きの街の中心として,奈良町住 図6 奈良市高札場,里程元標,道路元標の現況 2018 年 2 月 25 日.小林護氏撮影,提供
  6. ―6― 人への布告の場であった高札場に選ばれたのは自然 であろう. 近代以降の里程元標,道路元標については,その 機能から考えると街道の起点である樽井町へ設置す る選択肢もあり得ただろうが,館林の事例をみても 旧高札場に元標を設置することは一般的であったよ うで,奈良でもやはり旧高札場が選ばれ,橋本町と なったのではないか. 3.国の基点と彼方をつなぐ古代のミステリー

    このように 1300 年の歴史的蓄積の上に,近代に 奈良市道路元標の地となった橋本町樽井町界隈だ が,もし 1300 年前に道路法が存在していれば,ど のようになっていただろうか.奈良は当時都であっ たのだから,この地の道路元標は奈良市道路元標で はなく,日本国道路元標であったかもしれない9) . そして,当時は辺境であった遠く陸奥の国までも延 びる東山道を含む,七道の起点,国の基点として機 能していたかもしれない. この地に,そのような辺境と都とのつながりに関 わる悲劇の伝説が伝わっている.樽井町に釆女神社 と呼ばれる式内古社が存在するが,その祭神である 釆女の伝説である. 葛城王(後の橘諸兄)が東北巡察使として福島の 安積地方(今の郡山市)を訪れた際,春姫と名乗る 美しい女性を見出し,奈良に連れ帰り釆女として宮 中に出仕させた.やがて春姫は天皇の寵愛を受ける ようになるが,後にその寵愛が薄れたことに絶望し た春姫は,衣服を脱いで樽井町東隣の猿沢池畔の衣 掛柳に掛けたのち,猿沢池に入水自殺したという. 春姫の死を憐れんで建立されたのが,釆女神社だと いう(増尾 2009:39) .この伝説は,謡曲「釆女」 のモチーフにもなっている. ところがこの釆女春姫の伝説は,故郷である安積 地方にも伝わっており,そちらは奈良に伝わるもの とは全く異なる.春姫には故郷に愛する婚約者がお り,故郷に帰りたいと考えていた.そこで一計を案 じ,衣掛柳に衣服を掛けて,猿沢池に入水したよう に見せかける偽装自殺を企てたのである.伝説のレ ベルとは思えぬ推理小説ばりのアリバイ工作だが, こうして自らを死んだと偽装し追っ手を免れた春姫 は,当時の東山道起点からほぼ終点までの全里程を 踏破し,故郷の安積へと戻りついた.そして愛する 婚約者を探したが,悲しいかな,婚約者は春姫が奈 良へ連れ去られた時点で悲しみのあまり山の井の清 水に身を投げており,やはり絶望した春姫も同じ山 の井の清水で婚約者の後を追うのであった(福島県 安積郡片平村公民館 1959:五) . 伝説とはいえ 1300 年もの昔から,橋本町樽井町 界隈は国の基点としてはるか彼方の辺境とつなが り,大恋愛,ミステリーといった人々の交流ドラマ の舞台となった.今現在,奈良の街を育てた2つの 氏寺,氏神は世界遺産となり,国の枠を越えてはる か世界の国々にまで訴求し,奈良の街に誘い,人々 をつなげようとしている.今後奈良がどのように変 わっていこうとも,この界隈はつねに奈良の中心と して,街の発展を見守っていくだろう. Ⅳ むすびに 以上で,館林市と奈良市の2事例での,近代以降 道路元標の置かれた場所に近世以前に置かれていた 高札場について,その場所に置かれた理由,その場 所が街の中心となった経緯について調査考察を行っ た.書き始めた時点で6割程度しか方向性を定め ず,書きながらも並行して調査を深めた本稿だが, 当初の予想以上に関連がつながり,どちらの街も街 の設計,設置時期に近いところまで遠因を求められ そうなことが判明した. 近代に街の一隅に設置された小さな石碑のそこに 設置された理由が,深掘りをしていくと戦国時代, 奈良時代といった古くにまで遡り得るのは大きな驚 きであり,同様の調査を他の街にまで広げていく と,同様に新たな発見が得られる可能性があるので
  7. ―7― はないか.創作物や伝説など,学術的ではないとこ ろにまで言及を広げた本稿だが,今後の道路元標研 究に対して何らか新しい視点をもし提供できていた ら,幸いである. 本稿の執筆にあたっては,道路元標写真を提供いただ いた小林護氏,館林の現地情報を提供くださった中山墾 氏をはじめ,多くの方の協力をいただきました.心より 感謝いたします. 注

    1)奈良県の公文書の事例.実際には, 『里程一件』と題す る文書(1888 年,奈良県立図書情報館蔵)にまず里程元 標が「奈良橋本町通称札場」と呼ばれる高札場を意識さ せる場に設置されることが示され,続いて『道路元標一 件』と題する文書(1920 年,同館蔵)に道路元標の設置 基準は「可成里程元標ニ一致セシメ……」と示されたこ とによって、間接的に道路元標の設置場所として高札場 が選ばれた経緯が見てとれる. 2)館林城の起源については, 『松陰私語』といった同時代 記録に 1471 年(文明3年)には赤井文三,文六兄弟が館 林城に籠城したといった記録が残っており,よってそれ より後となる赤井照光の築城,及び照康の移邑などは伝 説に過ぎないとする指摘もある(布川 1989:18) .本稿 では館林城の築城時期の出来事には注視せず,館林城下 町拡張時の状況に注視しているため,館林城の築城につ いては一般的な説を借りている. 3)福田(1932:80-81)による.日光脇往還の成立後すぐ に高札が脇に移されたわけではなく,日光脇往還の設置 よりかなり時代の下った 1674 年(延宝2年)の絵図で も,高札は辻の中央にあることが見てとれる.高札が辻 の東南に移ったことが確実に確認できるのは,1848 年 (嘉永元年)の絵図からである. 4)TV アニメ「宇宙よりも遠い場所」公式サイト.http:/ /yorimoi.com/(2021 年 9 月 29 日閲覧) 5)心で感じる景観の特性について.https://www.city.na ra.lg.jp/uploaded/attachment/15366.pdf(2021 年 9 月 30 日閲覧) .なお,橋本町以外の 13 ヶ所は,奈良町の出 入り口である奈良坂村,不空院辻,中辻町,柳町,下三 條口と,奈良回り8ヶ村である芝辻村,法蓮村,杉ヶ町 村,油坂村,京終村,城戸村,野田村,川上村である. 6)実際,山田(1976:44)によると,1942 年(昭和 17 年)に樽井町は橋本町に吸収合併されて一時なくなった ようである.少なくとも同書の発行年である 1976 年まで は合併が維持されていたと思われるが,現況は再度分離 しており,再分離の時期までは調査したが判明しなかっ た. 7)具体的には,奈良曝,平城坊目考では橋本町は第2, 奈良地誌では樽井町は第3である.奈良坊目拙解は南北 に書き進める規則に則っているので樽井町は第2ではな いが,分冊されている2巻の筆頭に記されている. 8)京都高低差崖会.ブラタモリ奈良に出演!:奈良中心 部の凸凹地形.https://kyotokoteisa.hatenablog.jp/en try/2015/06/27/194000(2021 年 9 月 30 日閲覧) 9)もっとも,平城京外京にあたる奈良町,それに含まれ る橋本町樽井町が発達するのは大分時代が下ってからで あり,1300 年の昔であれば奈良の街の中心は平城宮近辺 であったはず,というツッコミはあり得る. 文献 福田啓作 1932. 館林文庫『館林の話』 (国書刊行館) 福島県安積郡片平村公民館 1959.『安積郡片平村名所旧蹟 二』 (福島県安積郡片平村公民館) 福田啓作 1973.『館林町誌稿』 (名著出版) 山田熊夫 1973.『奈良町風土記』 (豊住書店) 奈良市 1985.『奈良市史 社寺編』 (吉川弘文館) 布川了 1989.『館林史談 城と城下町の起原』 (みくに書 房) 館林市立図書館 2003. 館林双書『館林の地名』 (館林市立 図書館) 増尾正子 2009.『奈良の昔話 第四巻』 (まほろば出版局)