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歴史を知って散歩に 出かけましょう!パート2、伊能忠敬、間宮林蔵

歴史を知って散歩に 出かけましょう!パート2、伊能忠敬、間宮林蔵

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July 16, 2025
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  1. 年表 1700 1800 1900 享保の改革 (徳川吉宗) 寛政の改革 (松平定信) 天保の改革 (水野忠邦)

    田沼意次 蔦屋 重三郎 松平定信 伊能忠敬 間宮林蔵 ラクスマンが 根室に来航 レザノフが 長崎に来航 ペリー 来航 大政奉還 ロシア
  2. 伊能忠敬 • 伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]、延享2年1月11日〈1745 年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、江戸 時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。通称は三郎右衛門 (さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。字は子斉、号は東河。

    • 寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、 17年をかけて日本全国を測量、73歳で死去[2][3]。その後は弟 子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、 国土の正確な姿を明らかにした。
  3. 間宮林蔵 • 1775 - 1844 • 間宮 林蔵(まみや りんぞう)は、江戸時 代後期の徳川将軍家御庭番、探検家。名は

    倫宗(ともむね)。常陸の国(茨城県)出 身の元武家の帰農した農民出身であり、幕 府で御庭番を務めた役人であった。生年は 安永4年(1775年)とも[1]。 • 樺太(サハリン)が島である事を確認し間 宮海峡を発見した事で知られる。近藤重蔵、 平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。
  4. 伊能忠敬と間宮林蔵のかんけいは • 1800年 蝦夷(北海道)に林蔵が派遣され たときに測量調査に来ていた忠敬と出会う • その後林蔵は忠敬から直接測量技術を学び 蝦夷地や南千島の測量に従事 • 林蔵は樺太が島であることを発見、その後

    忠敬の邸に出入りして測量技術の向上に努 めた • 忠敬が進めていた“大日本沿海輿地全図(だ いにほんえんかいよちぜんず)”の蝦夷以北 の地図は林蔵の測量図 • https://www.ripro.co.jp/yamaoka/k- hanashi/mamiya/mamiya-4.htm
  5. • 田沼意次 1719 - 1788 • 蔦屋 重三郎 1750 –

    1797 • 松平定信 1759 – 1829 • 伊能忠敬 1745 – 1818 • 間宮林蔵 1780 – 1844 • 享保の改革(徳川吉宗)1716 – 1745 • 寛政の改革(松平定信) 1787 – 1793 • 天保の改革(水野忠邦) 1841 - 1843 • ラクスマンが根室に来航 1782 • レザノフが長崎に来航 1804 • ペリー来航 1853 • 大政奉還 1867
  6. 江戸時代は人生50年 • 「人生五十年」は、織田信長が好んだとされる幸若舞「敦盛」の一節で、人の世 の50年という歳月は、天上界の時間と比べると夢のように短いものだ、という意 味です。 • 詳細: • 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」:という詞章は、人の 世の50年という歳月は、天上界の一日にすら及ばないほど短く、儚いものである、

    ということを表しています。 • 「人間(にんげん)」:は、ここでは「人の世」や「人間界」を指し、個人の寿 命を意味するものではありません。 • 「下天(げてん)」:は、仏教における六欲天(欲望の度合いによって分けられ た天界)の最下層を指し、その住民の寿命は500年とされています。 • 「夢幻の如くなり」:は、この世の出来事が夢や幻のように儚く、移ろいやすい ことを表しています。 • この言葉は、人生の fleeting(はかない)さを表すものとして、しばしば織田信 長と結びつけて語られますが、信長の発言ではなく、幸若舞「敦盛」の一節で す。 • 現代では、「人生は50年」という短さを表す言葉として誤解されることもありま すが、本来の意味は、人の世の50年という歳月は、天上界の時間と比べれば非常 に短いものである、ということを表しています。