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Endel Tulvingとエピソード記憶

Endel Tulvingとエピソード記憶

2023年10月24日に行った勉強会の資料です。

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Ryuichi Maruyama

December 20, 2025
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  1. ⾃⼰紹介‧開催趣旨 丸⼭隆⼀ (@rmaruy) • 出版社(8年)→ 科学政策関連の調査(3年⽬) • 「記憶の科学と哲学」への関⼼ • Podcast「記憶を学問する」 •

    2,3年前から三村さん‧サトウさんらと読書会を開催 本⽇の趣旨 • 2023年9⽉、Endel Tulvingさん逝去(享年96才)。 • 記憶の勉強をするなかで最も気になる研究者の⼀⼈。 • Tulvingさんがこの世を去ったこの機に、振り返ってみたい。→いくつか論⽂を読んでみた。 • ⾮専⾨家の勉強に基づく⾮学術的な発表であることをご了承ください。
  2. Endel Tulving (1927年5月26日~2023年9月11日) • エストニア出身。ロシアの侵攻を逃れてドイツへ、1949年(19歳)にカナダ へ。 • トロント大学にて心理学を学び、ハーバード大学にてPhD取得。 • トロント大学教授→1992年にRotman研究所に移籍。

    • 多くの心理学者を育成。 • 記憶の心理学の第一人者であるDaniel Schacter氏など。 • 数々の受賞歴。 • Rotmanの上司:「彼はノーベル賞以外のすべての賞をとった」 Turnbull (2006) https://www.amacad.org/person/endel-tulving Neurotree https://neurotree.org/beta/tree.php?pid=3673
  3. 記憶の分類 • Tulvingは陳述記憶(declarative memory)の下位区分としてエピソード記憶 (episodic memory)と 意味記憶(semantic memory)の区別を提唱。 脳科学辞典「陳述記憶‧⾮陳述記憶」 DOI:10.14931/bsd.2566

    • エピソード記憶 の例:「私は私が昨年の夏に、北海道でジンギスカンを食べたことを覚えている」 • 意味記憶の例   :「私は、ジンギスカンは羊の肉の料理であることを覚えている。」 例は青山(2021) から
  4. 「エピソード記憶」概念の誕⽣ • 45歳のときの編著「Organization of memory」のチャプターにて「エピソード記憶」を提案。 • 「意味記憶」ではない記憶として「エピソード記憶」を導入。 • 意味記憶とは、「言葉や概念の情報の授受や保持、概念の区別のためのシステム」 •

    意味記憶はTulvingの造語ではない。→Ross Quillian 1966年の学位論文。 • エピソード記憶 とは、「個人的経験とその時間的関係についての記憶」 • ただし、これに相当する区分は新しいものではなく、哲学者たちに議論されていたことへの言及がある。 • Tulving(2005)ではベルクソンとジェームズが挙げられている。平井(2022)にはベルクソンのさらなる前史 への言及あり。 • 意味記憶とエピソード記憶は、「二つの並行した、部分的に重なる情報処理システム」。 • ただし、この時点でTulvingにこの区分を正当化する材料が多くあったわけでなく、あくまで「ヒューリスティッ クな区分」(Tulving 2002)の提案だった。 Tulving, E. (1972). Episodic and semantic memory.
  5. なぜ新しい記憶の区分を作るのか? • Tulvingは心理学の研究対象としての記憶概念を精緻化しようとした。 • 「未熟な科学に見られる顕著な特徴の一つは、主要な概念の定義と使用に関するルーズさである」(Tulving 1972) • 「自然種」という考え方 • 自然種(natural

    kind):人間が恣意的に決めたのではない、自然界の構造を反映したグループ分け。 • 「記憶全般についての理論」をつくることはできない。 • 同じ「記憶」という言葉で呼んでいても、自然種として異なる記憶を包括するような理論をつくるのは無謀。 • 例:記憶の分析哲学者のKourken Michaelianの立場(Michaelian 2017) : • 陳述記憶と非陳述記憶は明確に違う自然種に属する。 • 意味記憶とエピソード記憶が異なる自然種をなすか否かは、今後の研究次第。
  6. エピソード記憶概念の変遷(Tulving 2002, 2005) • 当初、Tulvingは実験室でのエビングハウス式の記憶課題はエピソード記憶を扱っていると考えたが、 1983年の著書でその考えを撤回。 • 実験室での記憶テストに欠けているのは、   ①「いつ」「どこで」覚えたのかという要素 、と②「想起の経験

    (recollective experience)」 • ①What-Where-When(WWW)記憶。 • ②主観に踏み込む。意味記憶は知識として知っていること(knowing)。エピソード記憶は自分の体験として覚えて いること(remembering)。 • 想起の際に心的時間旅行 (mental time travel)を伴う。 • 「エピソード記憶の本質は、自己(self)、autonoetic awareness、主観的時間 (subjective time)にある」 autonoetic awareness/consciousness: • 「自己思惟的意識」(榊 2006) • 「自己作用的意識」(佐藤2010)  • 出来事を心理的に再体験するような特有の意識状態(青山 2011)
  7. WWW記憶 1998年、Claytonらはカケス(scrub jay)のエピソード「様」記 憶(episodic-like memory)を報告。 • アメリカカケスは食べ残したエサを地面に隠す。そのエサ を回収する際に、ナッツなどよりも腐りやすい虫などを優 先して回収。 •

    「どこにエサを隠したか」だけでなく「いつ隠したか」も覚え ている • 「どこ(where)」と「いつ(when)」を兼ね備えたエピソード 「様」記憶 に該当。 • 他にもカササギ、ラット、アメリカコガラ、霊長類などで WWW記憶が報告されている。(佐藤2010) Wilkins & Clayton 2019 しかしTulvingにとってWWW記憶だけでは不十分。 エピソード様記憶 ≠ エピソード記憶
  8. エピソード記憶は固有の記憶システムである(Tulving 2002, 2005) • 患者KC(本名:Kent Cochrane、2014年没) • 30歳で交通事故。治療の過程ですべてのエピソード記憶を喪失。 • KCの意味記憶は正常。自分の名前や誕生日をいうことはできた

    し、カードゲームのルールなども覚えていた。 • 幼少期に住んでいた家も、知識としては知っていた。 • 意味記憶を新しく覚えることもわずかながらできた。 • KCは、過去や将来について聞かれると「空白(blank)です」と答え た。 • KCは過去と未来への心的時間旅行ができない 。 Kent Cochrane氏 Tulving (2002) • Tulvingはエピソード記憶が固有の心理学的なシステムとして存在していると考えた。 • その証拠に、意味記憶の能力を持つが、エピソード記憶を持たない状態があり得る。
  9. 4歳までの⼦どもはエピソード記憶を持たない(Tulving 2005) • 人が思い出すことができるのは4歳くらいからの記憶とされているが、Tulvingはそれに関連する実験を紹介 • 3~5歳の子供に、引き出しの中に何があるかをあらかじめ教えておいて、あとから答えさせる。引き出しの中身 を教える際には、引き出しの中にものを入れる様子を「見せる」/引き出しの中に何を入れたかを言葉で「聞かせ る」/答えは教えずにヒントを与えて「推測させる」 という3とおりの方法をとる。 • どの方法でも、3歳児でも正解できるが、「君はどうやってそれを知ったの?」と聞くと、5歳児は正しく答えること

    ができるのに対し、3歳児は答えられない。 • 3歳児は「知識」として記憶していたのに対し、5歳児は「経験」として覚えていた。 • 結論:人間の子どもは 4歳前後までエピソード記憶を持たない。 • 5歳くらいの子供も、「数ヶ月前に起こった新奇な出来事」は覚えていても、平凡な日には「今日自分が何をした か」は思い出せない。 • 言語を持たない生物でもエピソード記憶の有無を議論できるか?→「スプーンテスト」
  10. タイプとトークン青山 拓央 (2021)「エピソード記憶と言語ータイプからトークンへ」 • 青山拓央は意味記憶が出来事の「タイプ」に関する記憶であるのに対して、エピソード記憶は出来事の「トークン」 に関する記憶であると指摘。 • タイプ=種     例:ミカンという果物一般 •

    トークン=個物  例:昨日食べたあのミカンという個物 • エピソード記憶は過去の特定の出来事をトークンへのアクセスを可能にする。 • アメリカカケスの行動は出来事トークンとしての表象を伴っているとは限らない。 • 私たちがエピソード記憶を起点に考えがちななのは言語をもっているから。 • 「言語は、指示詞、定冠詞、固有名の働きによって、現実にあった一つの出来事をいきなりトークンとして表 象することが でき──たとえば「あのパーティ」 や 「サラエボ事件」などのように──そして、表象されたその出 来事トークンに対してさまざまな情報を付加できる。」(青山 2022)
  11. エピソード記憶は何のために? • エピソード記憶は、進化的にどんな適応的価値があったのか? • Tulvingの考え:エピソード記憶は未来を想像する能⼒を⼈間に与えたために進化した。 • Schacterらは、「Constructive Episodic Simulation Hypothesis」を提唱。

    • 「未来は過去の正確な繰り返しではない。そのため、未来のエピソードのシミュレーションには、過去 の経験から要素を柔軟に抽出し、組み替える形で過去を利⽤できるシステムが必要である。」 (Schacter & Addis 2007) • Schacterによれば、この記憶の機能のために、過去の想起⾃体も構築的なプロセスとなり、記憶の様々 な不正確さや過誤記憶が⽣まれる(「記憶の七つの罪」)。 • 過去を思い出すこと⾃体に適応的価値はないのか? • ⻘⼭(2021)「過去の出来事トークンを表象する能⼒に何らかの適応的価値があることは⾃明である と思われてしまうのは、われわれヒトの⽣活実践がこの表象能⼒を当然のものとしたうえで今⽇あるよ うなかたちに構築されているためだ。ヒトの⽣活実践において過去の出来事トークンを表象できること には明らかな利点があり、 むしろそれが不可能である者は共同体から排除されかねないが、ヒト以外 の動物にとってはそうではない。…ヒト以外の動物は、過去の出来事トークンにまつわる責任や功績を 帰属されることはない。」
  12. 意味記憶とエピソード記憶、どちらが先に来るのか? • 神経科学などでは、エピソード記憶が意味記憶に先立つという考え方が普通? • 例:神経科学者G. Buzsaki(2019)「一度きりの試行で固有の出来事を習得するエピソード記憶とは異なり、意味 情報は通常、同じ事物や出来事に繰り返し遭遇した後に学習される。最初はエピソード記憶にエンコードされた情 報は、次第に文脈的な特徴を失い、一般化される。 」(Buzsaki 2019)

    • 一方、Tulvingは、意味記憶がエピソード記憶に先立つとの立場。 • 進化的には、「意味記憶はエピソード記憶よりずっと前に出現した。 人間以外の多くの動物、特に哺乳類や鳥類 は、よく発達した世界の知識(陳述記憶、意味記憶)獲得のシステムを持って」いる 。(Tulving 2002) • 個体にとっての記憶プロセスにおいて、符号化ではエピソード記憶に意味記憶が必須だが、保存と想起は独立に 起こるとするSPI (serial, parallel, independent)モデルを提唱。 • その他 • 「トークンからタイプではなく、タイプからトークンの順 で、出来事の表象能力は進化してきたのかも」(青山2021) • ベルクソン哲学者の平井靖史は、エピソード記憶と意味記憶の相互依存性を指摘。「想起に意味記憶(タイプ的イ メージ)は不可欠であるし、意味記憶の探索に想起が役立つことも多々ある(…)。そして当の意味記憶自体が、 エピソード記憶の重合でできているのだ。 」(平井 2022, p.316)
  13. なぜ Tulving はエピソード記憶概念を狭めた? • なぜTulvingは、エピソード記憶を⼼的時間旅⾏と いった実験的に検証しにくい要件によって再規定 したのか? • ⼼理学を「成熟させる」ための区別だったのに。 •

    ヒントになる記述が 2002論⽂の冒頭に。 © Carolyn Davison   Carolyn Davisonさん(トロント⼤PhD課程)の刺繍作品 https://twitter.com/carolyn_guay/status/1701975897954226434
  14. ⾃然現象としてのエピソード記憶の特別さ(Tulving 2002) “一つの例外を除いて、 時間の矢はまっすぐだ ” 時間の一方向性は自然界の最も基本的な法則であり、 世界で起こる宇宙開闢以来のすべてのできごと ――宇 宙での、地上での、物理的な、生物学的な、心理的なで きごと――を、無慈悲にも支配してきた。銀河や星は生

    まれて死ぬし、生き物は年をとるし、原因は結果の先に 来るし、昨日には戻れない。時間の流れは不可逆だ。 ” “例外は、過去を思い出す 人間の能力にある” “人が昨日したことを思い返すとき、 時間の矢はループ上に曲げられる ” その人は心の中で自身の過去に旅しており、時間の流れの不可逆性を破っている。 もちろん、物理的現実においてではなく、心にとっての現実のなかでだ。そして皆が 知っているように、人間にとって心の現実は物理的現実と同じくらい重要なものだ。母 なる自然(Mother Nature)が、お気に入りの生物が自分の不変の法則を打ち破るの を見て、自分の創造性に満足しているに違いない。 母なる自然はどうやってそれをしたのだろうか? (How did Mother Nature Do it?)” Embroidery by Carolyn Davison   https://carolyn-louise-davison.owlstown.n et/pages/453-sciart
  15. エビングハウス的記憶 世界についての知識 例:単語の意味 エピソード記憶 Tulving 1972 意味記憶 「時間の⽮を曲げる」⾃然界で唯⼀の現象 “How did

    Mother Nature do it?”(Tulving 2002) 意識の在り⽅:Noetic consciousness 出来事のトークンに関する記憶 4歳以上の⼈間のみ (Tulving 2002,2005) ※⾔語は必須ではない。  Cf.スプーンテスト • カケス、ラット、etc. • 患者KC • 4歳までの⼦ども Autonoetic Consciousness 「⾃⼰思惟的意識」 知識や、出来事のタイプに関する記憶  cf.⻘⼭拓央(2021) 例:リストにあった単語を判 別する。 「いつ」「どこ」の情報を 伴うWWW記憶 想起の経験 (=⼼的時間旅⾏) を伴う記憶 「エピソード様記 憶」 エピソード記憶 Tulving 2002 例:隠したエサを、いつ隠した かに応じて取りに⾏く。 例:先週の出来事を思い出 す。 まとめ案:エピソード記憶概念の変遷(1972年→2002/2005年)
  16. まとめ • Tulvingが半世紀前に提唱した「エピソード記憶」概念は、心理学を超えて広く定着した。 • 一方で、その厳密な意味や、意味記憶との線引きは定まったとはいえないように見える。 • 例:「Current Debates in Philosophy

    of memory」特集 (De Brigard et al. 2022) • Wilkins, C., & Clayton, N.S. (2019). Reflections on the spoon test • Tulvingは後年、生物学の標準的な理解よりも、エピソード記憶の範囲を狭くとった。 • Tulvingはこだわりは、今日様々な分野で「記憶」について語るときにも重要ではないだろうか。 • 脳科学の進歩により、脳内記憶痕跡(エングラム)の探索と介入 の時代。 • AI・ロボットへの記憶力 の実装が議論される時代。 cf.ミニ・ワークショップ 「LLMと人間の記憶」 https://grp.riken.jp/events/20230828.html
  17. 参考⽂献 追悼記事 • The Globe and Mail: Diane Peters, Cognitive

    psychologist Endel Tulving shed light on how human memory functions  • Washington Post: Michael S. Rosenwald, Endel Tulving, psychologist who altered the study of memory, dies at 96 生前の記事 • Turnbull, B. (2006). Mastering the mind: Toronto researcher has changed the scientific world's understanding of how memory work (url) Tulvingの論文 • Tulving, E. (1972). Episodic and semantic memory. http://alicekim.ca/EMSM72.pdf • Tulving, E. (2002). “Episodic memory: from mind to brain.” Annual review of psychology 53,1-25 . https://alicekim.ca/AnnRev02.pdf • Tulving, E. (2005). “Episodic Memory and Autonoesis: Uniquely Human?”, in Herbert S. Terrace, and Janet Metcalfe (eds), The Missing Link in Cognition: Origins of self-reflective consciousness (New York, 2005; online edn, Oxford Academic, 22 Mar. 2012), https://doi.org/10.1093/acprof:oso/9780195161564.003.0001 その他 • Buzsaki, Gyorgi (2019). The Brain for Inside Out. • Michaelian, K. (2016) Mental Time Travel: Episodic Memory and Our Knowledge of the Personal Past, The MIT Press. • Schacter, D.L., & Addis, D.R. (2007). The cognitive neuroscience of constructive memory: remembering the past and imagining the future. Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences, 362, 773 - 786. • Schacter, Daniel L.. “Forgotten Ideas, Neglected Pioneers: Richard Semon and the Story of Memory.” (2001). • De Brigard et al. “Rethinking the distinction between episodic and semantic memory: Insights from the past, present, and future.” Memory & Cognition 50 (2022): 459 - 463. • Wilkins, C., & Clayton, N.S. (2019). Reflections on the spoon test. Neuropsychologia, 134. https://doi.org/10.1016/j.neuropsychologia.2019.107221Get rights and content • 青山 拓央. (2021). エピソード記憶と言語ーータイプからトークンへ,『時間と言語』(嶋田珠巳 , 鍛治広真(編著))三省堂 95-112 2021年1月 • 佐藤 暢哉. (2010). ヒト以外の動物のエピソード的 (episodic-like) 記憶—WWW 記憶と心的時間旅行 —. 動物心理学研究 , 60(2), 105-117. • 榊 美知子. (2006). エピソード記憶と意味記憶の区分 . 心理学評論, 2006, 49 巻, 4 号, p. 627-643, https://doi.org/10.24602/sjpr.49.4_627 • 平井 靖史.(2022) 『世界は時間でできている』 , 青土社. • 丸山ブログ2017年3月6日「探究メモ:脳科学は記憶の仕組みをどこまで解明したのか? 〈第 6回:エピソード記憶は人間だけのものか〉」  https://rmaruy.hatenablog.com/entry/2017/03/06/113143 Special Thanks • Carolyn Davisonさん(トロント大PhD課程)